資本主義、社会主義、混合経済

前回(第8回)は資本主義について定義したが、その対極にある「社会主義」も見ておかなければならないだろう。もっとも、「社会主義とは何か」という議論をすればきりがないので、ここでは、辞書を引用することにしたい。すなわち、『大辞林』(三省堂)によれば、「社会主義」とは、――

 「資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を、私有財産制の廃止、生産手段および財産の共有・共同管理によって解消し、平等で調和のとれた社会を実現しようとする思想および運動。共産主義無政府主義社会民主主義などを含む広い概念。」である。

 しかし、ここで「広い概念」とあるように、多くは政策と結びつき、雇用政策、福祉政策などを指して、「社会主義政策」と呼ばれている。このことは、例えば私有財産の廃止などを念頭に置かなくても、「社会主義」という言葉が使われることを意味している。

 したがって、ぴったりと重なるわけではないが、雇用政策、福祉政策などに多額の財政出動をすれば、現象的には社会主義に近づくことになる。このことは、いきおい「大きな政府」を指向せざるを得なくなり、自由放任主義に価値を置く「小さな政府」指向論者からの非難の的になる。

 その象徴的な例は、今年の1月に行われたマサチューセッツ州における上院議員補欠選挙であろう。予想を覆して当選した共和党議員の支持者が高く掲げていたのは、「オバマ社会主義者だ!」というプラカードだった。まさかオバマ大統領が私有財産制の廃止までを考えているとは思われないが。

 ここで注意すべきことは、「社会主義」をどのように定義し、使用しようとも、あらかたの人は、資本主義か社会主義かしかないと考えていることである。あるいは、社会主義政策を取り入れた資本主義、資本主義経済を取り入れた社会主義という体制はあると考える人は多いだろうが、そのときに使われる概念は、「資本主義」と「社会主義」の2つだけである。

 したがって、そのような認識であれば、資本主義の次は社会主義であるという考えしか浮かんでこないことになる。そしてそれは、完全に社会主義に移行しない限り、資本主義の終焉はないという考えに結びつくだろう。

 しかし、果たしてそうであろうか。社会主義に完全に移行しなくても、資本主義の終焉を見ることはあるのではないだろうか。

  私は、完全に社会主義に移行しなくても資本主義の終焉があるという考えを持っており、したがって、「資本主義」と「社会主義」だけでなく、「他にもある」と思っている。しかし、そのことはこの論考の主題であるから、後に詳しく述べることにする。

 そこで言及しなければならないことは、サムエルソンの「混合経済」という概念である。彼は、「アメリカのような先進工業国の経済生活の研究を始めるに先立って、われわれは、近代混合経済の歴史と進化の過程に目を転じなければならない。」と言い、市場経済と指令経済を定義したうえで、次のように述べている。

  「まず、市場経済と指令経済について先に行った定義を想起されたい。市場メカニズムというのは、経済的組織の三つの中心的課題を解決するにあたり、個々の消費者と企業が市場を通じて相互に関連し合うところの経済的組織の一形態である。指令経済というのは、資源の配分が政府によって決定され、政府が個人や企業にたいし国の経済計画に従うよう指令するところの経済的組織の一形態である。今日では、これらの極端例のいずれもアメリカの経済体制の現実を描写していない。むしろ、アメリカの体制は混合経済であって、そこでは民間の機構と公共的機構の両方が経済面での統御にたずさわる。」(P.サムエルソン W.ノードハウス著、都留重人訳『サムエルソン経済学上[原書第13版]』岩波書店・37頁)

 サムエルソンは、ここではアメリカを念頭に置いているが、現在ではアメリカに限らず、多くの先進国の現実を描写していると言ってよいだろう。また、中国の現実を見れば、中国もまた混合経済を採用していると言えると思う。そればかりでなく、多くの発展途上国も混合経済だと言えると思われる。こうしてみると、今や「混合経済」は、世界中に普及している経済システムだと言ってよいだろう。

 なお、ここでは「市場経済」という言葉が使われているが、資本主義か社会主義かと分ける場合には、「資本主義的経済体制」という言葉に置き換えることが可能であろう。もっとも、ぴったりと一致するわけではないだろうが。同様に、「指令経済」という言葉は、「社会主義的経済体制」に重ねてもよいと思う。

 このように考えると、おおまかに言えば、現在は、資本主義と社会主義が混在する混合経済の体制であると言うことができる。私も、現在の表層を見る限りでは、なるほどそうであろうと思っている。

 ところで、資本主義と社会主義との混合経済という考えは、政策的には資本主義政策と社会主義政策とを、その時々の経済情勢に応じてバランスよく採用すればよいということになるだろう。これが好況のときには新自由主義的な理論がもてはやされ、財政出動を要請する不況のときにはケインジアンの理論が動員されることに結びついている。

 確かに、近代以降、世の中はだいたいそのように動いてきたし、今後もバランスさえ崩れなければ、この混合経済でうまくやってゆけるのではないかと思わせるところがある。

 では、混合経済であるから、「資本主義は終わっている」と言えるだろうか。この問に対してイエスと答える人は誰もいないであろう。なぜならば、シェアに大小の差があっても、混合経済の中には資本主義経済が多くの部分を占めているのだから。

 したがって、バランスを崩して社会主義に完全に移行しない限り、すなわち、バランスを保って混合経済を維持する限り、資本主義は終焉を迎えないということになる。

 しかし、ここに3つの問題がある。1つは、資本主義と社会主義は基本的に矛盾する体制である、ということである。資本主義は自由を重んじ、社会主義は平等を尊重する。この通常であれば矛盾する要請に対して、混合経済をうまく操縦してゆくことができるのだろうか。そこには絶えずせめぎ合いや葛藤が起こり、あちこちに亀裂が生ずるのではないだろうか。その例はいくらでも挙げることができるが、長くなるので先に進もう。

 もう1つは、いつまでもバランスを保つことができるだろうか、ということである。社会主義に完全に移行する前に、混合経済がバランスを崩して、ハイパー・インフレーションなどの混乱が起こることがないだろうか。果ては、戦争という大愚を犯すことがないだろうか。そんな馬鹿なことは起こらないと誰が保証することができるだろう? 人類はすでに何度もそれを経験しているのに。とは言え、狼が来ると騒いでいると誤解されるのはよくないので、この辺にしておこう。

 さらにもう1つの問題は、バランスを保って混合経済を維持する限り資本主義が終焉しないという考えは、私的所有が空洞になって、資本主義の基礎が崩壊しているという事実を見逃してしまうことである。そしてその結果、社会が壊滅する前に手を打つことができなくなる恐れがある。

 こうして見ると、「混合経済」という認識は、表層にあらわれている現象はともかくとして、社会を形作っている基礎のところまで視野に入れたときには、欠けたところがあると言わざるを得ない。

 しかし、資本主義の先に何があるのかという議論をする前に、「資本主義は終わっている」ということを論証しなければならない。私は、「先取り」という概念を使って論証したいと考えているが、次回からは、その概念とそれを思いついた経緯を述べることにしたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/10にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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資本主義の定義と終焉の指標

前回に「先取り」という見方について述べたので、引き続いて「先取り」の概念とそれを思いついた経緯について論述したいところだが、その前に、「資本主義」という言葉の定義をしておきたいと思う。そして、この論考は、「資本主義は終わっている」という事実を論証するところに主眼があるので、「資本主義」の定義を見る機会に、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」と言えるのかということにも言及しておく必要があるだろう。したがって、今回は、資本主義の定義と終焉の指標について概観することにしたい。
資本主義の定義についてはいろいろな説があるが、ここでそれを並べることにそれほど意味があるとは思えない。なぜならば、この論考は、「先取り」を鍵にして「資本主義は終わっている」ということを論証する方法を採るので、これまで巷間に流布されている方法と異なる道筋を辿るからである。しかし、「資本主義」の定義を見ておくことはそれなりに意味があるので、一応文献に当たっておくことにする。そこで、やや長くなるが、『体系経済学辞典第6版』(東洋経済新報社)を引用させていただく。
  「資本主義という言葉は19世紀中頃からイギリスで用いられはじめたが、その
定義は必ずしも明確でなかった。これに明確な規定を与えたのはマルクスである。
マルクスによれば資本主義とは、一方で生産手段が少数の資本家の手に集中され、
他方に自分の労働力を売る以外に生活する手段をもたない多数の労働者階級が存在
するような生産様式をさす。この生産様式は次の諸点において、それ以前の生産様
式と異なっている。(1)商品生産が社会のすみずみまでいきわたり、労働力まで
が商品化されて、価値法則が貫徹していること、(2)労働者が身分制などの拘束
から解放されて自由となり、また生産手段をも失って「二重の意味において自由」
であること、(3)したがって労働者からの搾取は経済外的強制によらず、経済的
強制によって行なわれ、必要労働と余剰労働とが空間的に分離されていないこと、
(4)生産手段の私有制が完全に確立していること、である。」(同書86頁)
 このマルクスの定義は、今でも一部「なるほど」と思わせるところがあるが、総じて古色蒼然とした印象がすると同時に、いかにも対象が狭いと言わなければならないだろう。

 すでに、独占資本主義、金融資本主義、グローバル資本主義、マネー資本主義、強欲資本主義などと頭に形容詞がつくような資本主義をわれわれは経験しており、それが「資本主義」という言葉で語られている以上、それらを全部資本主義の範疇に入れなければならないと思われる。

 また、マルクスの定義が狭いと感じるのは、それが産業革命以後の大規模な工業生産だけを念頭に置いているからであろう。すなわち、この定義の中には、流通、サービス、金融、情報などの仕事が直接的には入っていない。

 一定の元手を使って生産をするだけでなく、物の売り買い、金の貸し借りなどは大昔からあったことだが、資本主義における流通、サービス、金融、情報などの仕事がそれより前の時代と異なるところは、市場を使って莫大な資金を集め、それこそ「社会のすみずみまでいきわたる」大規模なシステムを社会の中に組み込んでいるところであろう。したがって、「資本主義」を定義するのであれば、流通、サービス、金融、情報などの仕事も、その中に入れておく必要がある。

 ここまでくれば、「資本主義」とは、産業革命以後の社会のほぼ全体にゆきわたっている経済体制という意味で使われているといってよいであろう。

 「資本主義」という言葉をこのように定義し、このような意味で使われているときに、では、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」ということになるのであろうか。

 これについてはさまざまなことが言われている。例えば、2008年秋アメリカ発の金融危機によって資本主義が終焉したと言う論者もいるし、いやその前に、多くの国が社会主義政策を導入したときにすでに資本主義ではなくなっているという論者もいる。しかし、表面に現れているそのような現象だけで資本主義の終焉を説くのは、いささか説得力に欠けるところがあると思われる。

 ところで、マルクスによれば、生産過剰による恐慌が引き金になって資本主義が崩壊すると言う。これは、マルクスの定義からすれば、ある意味で論理必然的に出てくる結論であるように思われるが、歴史的な事実によれば、恐慌が起こっても資本主義自体は崩壊しなかった。すなわち、生産過剰による恐慌によっては、資本主義は終焉しないのである。

 このことは、岩井克人教授が『貨幣論』(筑摩書房)で指摘しているところであり、私もその通りだと思う。その岩井教授は、ハイパー・インフレーションによる貨幣が崩壊したときをもって資本主義の終焉と考えていて、次のように述べている。

「ひとびとが貨幣から遁走していくハイパー・インフレーションとは、まさにこ
の貨幣の存立をめぐる因果の連鎖の円環がみずから崩壊をとげてゆく過程にほか
  ならないのである。」(同書196頁)

 そしてそのときこそが、「巨大な商品の集まり」としての資本主義社会の解体(Spaltung)にほかならないとされている。(同書197頁)

 この岩井教授の説によれば、まだ決定的なハイパー・インフレーションは起こっていないから、将来はともかく、現在のところ「資本主義は終わっている」とは言えないことになるのだろう。

 この見解については、「なるほどそうか」と納得するところがあるが、もう少し、位相を低い所に置いて「資本主義」を見た場合にはどうなるだろうか。「位相を低い所に置く」ということは、資本主義の基礎を見るということである。すなわち、資本主義経済における社会の規範関係は、次の3つの要素が基礎になっている。

 「(1)私的所有  富が商品であるということは、富に対する排他的な完全な支       配――すなわち、私的所有――の相互承認なくしては、存在し得ない。

  (2)契約  商品に対する排他的支配の相互承認という前提の下では、商品(私的所有)の交換は、交換当事者双方の合意なくしては、存在し得ない。この合意が契約である。

  (3)法的主体性  商品交換の過程においては、交換当事者は、私的所有及び契約をとおして、相互の独立主体性――すなわち法的主体性――を承認しあっている。」(川島武宜民法総則』有斐閣・2〜3頁)

 すなわち、私的所有、契約、法的主体性が資本主義の基礎であり、これが中学校の教科書にも書いてあるように、「身分から契約へ」という封建制度の時代から資本主義の時代への変化の「しるし」である。

 私は、「先取り」――すなわち、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうこと、
先取りをした段階では中身のない空っぽの価値――が、私的所有、契約、法的主体性
という資本主義の基礎を壊してしまったことによって、「資本主義は終わっている」
ことを論証しようと考えている。すなわち、後に詳しく論述するが、基礎が壊れれ
ば、基礎の上に建っている建物は倒壊する――ここに着眼するのである。
 歴史上、資本主義は2度の大きな挑戦を受けている。1度は、共産主義革命である。しかし、ソビエト連邦が崩壊し、中国が市場経済を導入して、この挑戦は退けた形になっている。もう1度は、ナチスによる全体主義国家社会主義体制)からの挑戦である。これも、ヒットラーの敗北により、資本主義は持ちこたえることができた。

 この2つの挑戦の見逃す事ができない特徴は、資本主義の基本的な要素である「私的所有」に手を突っ込んで否定し、国家が「契約」を規制・管理し、人権を侵害して「法的主体性」を無視したところにある。

 この2つの挑戦は退けることができたが、それでは資本主義は結局終わっていないということになるのだろうか。このことに関し、資本主義と社会主義とを対比するとともに、もう1つの「混合経済」という考え方について、次回に検討してみよう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/03にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」という見方

前回引用させていただいたガルブレイズ『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』とベックマン『経済が崩壊するとき――その歴史から何を学び取れるか』という2冊の本に紹介されている歴史的事実は、まことにすさまじいばかりのドラマである。現在のわれわれからみれば、歴史上のドラマのように目に映るが、しかし同じような事件はその後も現実に起こり、私たちは、1980年代の日本における地価暴騰とその後の経済崩壊、現在進行中のサブプライムローンに端を発した米国発の金融崩壊などによって、忘れる暇もなく執拗に見せつけられている。

これらの一連の事件を見る限りは、確かにバブル経済の崩壊現象と捉えることができるかもしれない。この崩壊の渦にまきこまれて、多額の不良債権を抱え込んだ銀行、乗っ取られた会社、株や金融商品にあやつられて虎の子の財産をすってしまった人々……さまざまな被害者の歯ぎしりする音が聞こえてくるようである。

 マルクスも、このような現象について言及し、次のように指弾した。

 「収奪は、資本主義制度そのものの内部では、少数者による社会的所有の取得と して、対立的姿態をとって現れる。そして信用はこの少数者に対し、純粋な賭博師たる性格をますます与える。所有はここでは株式の形態で実在するから、その運動および移譲は取引所賭博の純粋な結果になるのであって、取引所賭博では小魚は鮫により、羊は取引所狼によって鵜呑みにされる。」(マルクス著・エンゲルス編・長谷部文雄訳『資本論第三部上』青木書店上製版・第四分冊・625頁)


なお、ケインズが、「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんらの害も与えないだろう。企業が投機の渦巻のなかの泡沫となると、事態は重大である。」と警告を発したことは前(第2回)に述べたとおりである。

投機取引の渦に入って、ほとんど壊滅的な打撃を受けた人がいる一方、ひと儲けしてご満悦の人もいるだろう。また、この投機取引の資金づくりのために銀行などの金融機関から多額の借金をした人や企業であれば、さらに大きな打撃を受けただろう。投機取引の渦に入ってから起こる一連の事件は、資本主義のシステムを操作し、トリックを使って、ひと仕事やりとげられてしまったものとされ、それは特殊な病理現象と見られるものと思われる。
こうしてみると、煎じつめて言えば、これはゼロサム・ゲームに過ぎないと思われるかもしれない。しかし、果たしてそうであろうか。ゼロサム・ゲームというのは、参加者それぞれの選択する行動が何であれ、各参加者の利得と損失の総和がゼロになるゲームである。すなわち、負けと勝ちとがちょうど等しくなるゲームであるから、カジノでは、勝った人間が手に入れただけのものを、敗者が失わざるを得ない。

したがって、投機取引がゼロサム・ゲームであるのならば、投機取引に参加さえしなければ、影響はさほど大きくないはずである。だからこそ、ガルブレイズは、「興奮したムードが市場に拡がったり、投機の見通しが楽観ムードに包まれるような時や、特別な先見の明に基づく独特の機会があるという主張がなされるような時には、良識あるすべての人は渦中に入らない方がよい。」(前出『バブルの物語』155頁)と忠告し、べックマンは、「(来るべき『崩壊』に対処するには、)まず第一に何よりも重要なルールは、何をするにしろシンプルに、ということである。」(前出『経済が崩壊するとき』387頁)と言っている。

しかし、投機の渦中に入らず、何をするにもシンプルに生活をしていれば、わが身を守ることができるのだろうか。ゲームに参加せずに傍観するだけにしておけば、ちょっと興奮するだけでツケがわが身に廻ってこないものなのだろうか。職と住を同時に失った派遣労働者日比谷公園派遣村に集まってきたり、大学・高校生の就職内定率が最低を記録したりするニュースに接すると、どうもそうではなさそうだと思わざるを得ない。

経済の疲弊は必ずしもすぐにやってくるとは限らない。しかも、そのツケは、とんでもないところに廻されてくる。つまり、ゲームに参加しなくても、投機という賭場にいなくても、すなわち、自分に何の責任がなくても、ツケを廻されてしまうのだ。とくに、弱いところに、気がつかないうちに、ときには突然、ときにはジワジワとやってくる。そこが問題なのだ。

私には、「バブル経済」という言葉では括りきれないもっと大きな影が、勝ちのない、負けのだけの独自の生態をもって、世の中の多くのところに触手を伸ばしてきていると感じている。

 ケインズは、「着実な流れに浮かぶ泡沫」と「投機の渦巻きのなかの泡沫」に分け、前者ならばなんらの害は与えないが、後者ならば事態は重大であると言うが、投機の渦巻きの中にあるものは「泡沫」=「バブル」でないという認識がないことについては、前(第2回)に述べたとおりである。しかしそれにしても、いったい前者と後者のどこに線を引くのだろうか。

 前者と後者は同じものが起こす現象に過ぎず、それは、「着実な流れに浮かぶ泡沫」程度のときはどこかに潜んでおとなしくしているだけであって、必ずいつかは、「投機の渦巻きのなかの泡沫」現象を起こす。先ほど投機の過熱について、「特殊な病理現象」と言ったが、それは何も「特殊な」ものではなく、病気が潜伏期間中か否かの違いだけなのだという見方もできると思う。

  それではいったい、それは何なのだろうか。

 それは、資本主義の属性、すなわち、「先取り」である。「先取り」については、これまで何度も述べたが、要するに、個人のレベルでも企業のレベルでも、国家のレベルでも、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうという経済現象を言う。「価値」という言葉が分かりにくいのであれば「富」という言葉に置き換えてもよい。あるいは、個人レベルであれば「報酬」、企業レベルであれば「利潤」、国家レベルであれば「税収」と言えば、いっそう分かりやすいであろう。

 「先取り」という概念を使って、資本主義の病理を究明しようと考えたのは、おそらく私が最初だと思うが、公正を期するために、「先取り」という言葉が使われている文献を引用しておく必要があると思う。マルクスは、「利子」に関して、次のように言っている。

 「総利潤すなわち利潤全体の現実的価値量が各個のばあいに平均的利潤からいか    に乖離しようとも、機能資本家に帰属する部分は利子によって規定されている。けだし利子は(特殊な法律上の契約を度外視すれば)一般的利子歩合によって固定されて、生産過程の開始以前、つまりその成果たる総利潤が獲得される以前に、先取りされるものとして前提されているからである。」(前出『資本論第三部上』529頁)

 マルクスは、そこから先、「先取り」という概念を使って資本主義の病理を解明する方法をとっていない。だからこそ、前述のとおり、「取引所賭博では小魚は鮫により、羊は取引所狼によって鵜呑みにされる」といういわば情緒的表現に留まっているのではないかと思われる。すなわち、マルクスの取引所賭博に対する罵倒は、それを論理的思考の枠外に追い出しているのではないだろうか。だから、それが見えたときが思考の終着点になる。その点では、ケインズも同じで、「一国の資本発展が賭博場の活動の副産物になった場合には、仕事はうまくいきそうにない」と言った地点で、この筋道の思考は止まったのだ、と私は考えている。

 しかし私は、この「先取り」こそ資本主義の本質的な属性であり、そこからさまざまな矛盾が噴き出ていると思っている。したがって、私の場合は、「取引所賭博」や「仕事は不首尾」の地点が出発点になる。なぜなら、そうでなければ、現実の経済とそこで起こっている問題の深層に迫ることができないからだ。  

 私が「先取り」という概念を使って資本主義経済の属性になっていることについて公表したのは、前(第2回)に述べたとおり、1969年だった。その後私は、著作や小説で度々「先取り」をテーマにものを書いていたが、「先取り」の概念とそれを思いついた経緯については、後にきちんと説明する予定である。その前に、「資本主義」の定義をし、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」と言えるのかということを、次回に概観しておきたいと思う。

 なお、私が「先取り」に関して書いたものに対し、書評で取り上げられたのは全部合わせてもほんの数回だったが、小説『デス』は1999年8月25日付日経金融新聞で「今月の一冊」という書評欄でとりあげていただいた。また、「先取り」という概念については、日本経済新聞の「法律広場」欄に『先取り経済の盲点』というタイトルでコラムを書いたことがあるので(2009年3月7日、14日、21日、28日付日経PLUS版)、今のところマイナーではあるが、世の中に全く出ていないというわけではない。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/27にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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いわゆる「バブル経済」の歴史

資本主義の歴史は、市場の歴史でもある。そして、市場はしばしば暴走した。つまり、資本主義には絶えず市場の暴走がついてまわっていたのだ。

さて、ここに2冊の本がある。

1冊は、ジョン・K・ガルブレイズの『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』(鈴木哲太郎訳・ダイヤモンド社)である。

この本の中で、ガルブレイズは、17世紀初頭のアムステルダムに現れた最初の近代的な株式市場を舞台にして、チューリップを道具とする大がかりな投機が爆発したことを紹介している。私が要約したり解説したりするとニュアンスが十分に伝えられない恐れがあるので、しばらくガルブレイズを引用させていただくことにしたい(なお、この本は2008年に新版が出版されているが、ここでは旧版を引く)。

「われ先に投資しようとする動きがオランダ全体を呑み込んだ。多少なりとも感受性のある人は誰しも、自分だけがとり残されてはならないと思った。価格は、途方もなく上昇した。1636年になると、それまでにたいして価値があるとは思われなかったような一箇の球根が、「新しい馬車一台、葦毛の馬二頭、そして馬具一式」と交換可能なほどだった。」(50頁)

 「貴族、市民、農民、職人、水夫、従僕、女中、さらには煙突掃除夫や古着屋のおばさんまでがチューリップに手を出した。あらゆる階層の人々がその財産を現金に換え、それをこの花に投資した。土地・建物はとんでもない安値で売りに出され、あるいはまたチューリップ市場でなされた取引の支払いのために譲渡された。外国人も同じ熱に襲われ、あらゆる所からオランダへ金が流入した。日用必需品の価格は次第に上昇した。それに伴って、土地・建物、馬と馬車、そしてあらゆる種類のぜいたく品の価格も高くなった。(中略)これは全くすばらしいことであった。オランダ人の歴史を通じて、彼らがこれほど恵まれたように思われたことはなかった。こうしたエピソードを支配する不変の法則どおり、価格が上昇するごとに、より多くの人が投機へ参入する気になった。このことがまた、すでに投機へ参加している人の希望を正当化し、彼らがさらに買い進んで価格が上昇する道を拓きいっそうの致富が際限なく続くことを保証した。買うために借金がおこなわれた。小さな球根が巨額の貸付の「てこ(レバレッジ)」となったのである。1637年に終末が訪れた。ここでも一般法則どおり事態が進行した。どういう理由かわからないが、賢明な人や神経質な人が手を引き始めた。彼らが去って行くのが他の人々にわかった。殺到した売りはパニックとなった。価格は断崖を滑り落ちるように暴落した。それまで買っていた人は、その多くが資産を担保にしていた――これが「てこ」である――のであるが、突然一文無しになり、また破産した。裕福な商人が乞食同然となり、多くの貴族の家産が回復不能の壊滅に陥った。(中略)不運に見舞われたのは昨日の金持ちばかりではなかった。チューリップ価格の暴落とそれによる貧困化は、その後のオランダ経済に深刻な影響を与えた。すなわち、今日の用語で言えば、長期にわたるかなりの程度の不況が続いたのである。」(53〜56頁)

ガルブレイズは、さらに18世紀におけるフランスのジョン・ロー事件、イギリスのサウスシー・バブル、19世紀アメリカの不動産投機と崩壊、1929年の大恐慌、1987年のブラック・マンデーに言及し、次々にあらわれたバブルが一国の経済を疲弊させた歴史を語っている。そして、「日本語版への序文」の中で、1980年代の日本における「バブル」についても言及し、「不労所得がこれほど目ざましく生じたことは、世界史上これまで全くなかった」と述べている。

ガルブレイズによれば、大がかりな投機が起こるときには、いつも金融の才のある仕掛人がいて、何か新奇らしく見える金融操作を発案する。投資する大衆は、その金融の天才に魅惑され、そのとりこになってしまう。しかし、「金融上の操作はおよそ革新になじまないものである。」とガルブレイズは断言し、次のように忠告する。

「陶酔的熱病(ユーフオリア)が生じると、人々は、価値と富が増えるすばらしさに見ほれ、自分もその流れに加わろうと躍起になり、それが価格をさらに押し上げ、そしてついには破局がきて、暗く苦しい結末となるのであるが、こうした陶酔的熱病が再び起こったときに、規則であるとか、正統的経済学の知識のようなものは、個人や金融機関を守る働きはしない。陶酔的熱病の危険から守ってくれるものがあるとすれば、それは、控え目に言っても集団的狂気としか言いようのないものへ突っ走ることに共通する特徴を明瞭に認識することしかない。このような認識があって初めて、投資家は警戒心を持ち、救われるのだ。」(18頁)

もう1冊は、ロバート・べックマンの『経済が崩壊するとき――その歴史から何が学びとれるか』(斎藤精一郎訳・日本実業出版社)である。

この本は、歴史に名高い大暴落や恐慌(クラッシュ)について、それらがどのようにして起こり、どのような結末を迎えたかを具体的にかつ読み物風に摘出したものである。チューリップ球根投機、サウスシー・バブル、ジョン・ローの事件などの他に、アメリカの強盗成金ジェイ・グールドが演出した1873年の大暴落、1920年代のフロリダにおける不動産投機と暴落、そして、第1次世界大戦後のドイツにおけるマルクの大幅な下落。このマルクの下落についてここで引用しておこう。

「当時のいくつかの話も、今になってみると非常に面白く思える。たとえば、ある学生がメニューでは5000マルクになっているコーヒーを注文した。2杯目を飲もうと思ったが、その間にマルクはさらに暴落していた。店主は早速、値段を9000マルクに修正したが、これは学生が払える限度の金額だった。彼はこう忠告されたという。「お金を節約して、しかもコーヒーを2杯飲みたかったら、1度に2杯注文することだよ。」(186頁)

「こういう話はいくらでもあるが、他の国の通貨と比べたはなしもある。ニューヨーク・タイムズ紙は、ベルリンのある「2流レストラン」にやって来た旅行者の話を紹介している。彼は1ドル札を見せびらかすと、それで食べられる料理を全部出すように言った。豪勢な料理が出てきた。さて、もうすぐ食べ終わるというときになって、ウェイターがスープとアントレをもう1皿ずつ持ってきた。そしてうやうやしく頭を下げると、「お客様、ドルがまた上がりました」と言ったという。」(同頁)

このような極端な通貨の下落は、21世紀になった今ではあり得ないと思ったら大間違いである。次のような記事を読んでみよう。

「アフリカ南部のジンバブエ中央銀行は2日、同国通貨ジンバブエ・ドルを1兆分の1にするデノミネーション(通貨呼称単位の変更)を発表した。地元政府系ヘラルド紙が報じたもので、1兆㌦が1㌦となる。1日時点の為替相場は、1米㌦(約90円)が約4兆ジンバブエ㌦だった。新たに1㌦札から500㌦札の7種類の紙幣を発行する。中央銀行は09年を経済危機脱出の転換点にしたいとしている。ジンバブエは年率2億%を超すインフレに見舞われており、昨年にも100億㌦を1㌦とするデノミを実施。先月には、国内の商取引で米ドルやユーロなど外国通貨を使用することを認めた。しかし、インフレは収まらず、最高額紙幣10兆㌦札が流通し、先月には100兆㌦札の発行予告もあった。」(2009年2月3日付け毎日新聞夕刊)

これは、日本から遠く離れたアフリカ南部の国の話だと思うのならば、日本銀行券のほかに政府が独自に発行する「政府紙幣」構想が自民党内で浮上していたという同日付けの記事(2009年2月3日付け朝日新聞)に対して、どのような感想を持たれるだろうか。記事の中では、過度のインフレ懸念が指摘されており、実現性が疑問視されている。民主党に政権が変わったので、この目はないと思われるが、それにしてもこのような構想が浮上すること自体薄気味悪い。

それはさておき、べックマンを読み進めよう。べックマンの筆は、1929年の大恐慌、1933年にアメリカで頻発した銀行の倒産、ネルソン・バンカー・ハントというギャンブラーの銀市場操作と1980年の暴落、1970年代のイギリスにおける金融緩和政策と不動産ブームそして泡の崩壊、1987年のブラック・マンデーへと続いている。

これらはいずれも、息を飲むような劇的な事件である。そしてべックマンは、ところどころに鋭い洞察と貴重な警句を織り込めている。そのいくつかを拾ってみよう。

「不景気を経て、好景気を支える条件が変わりはじめた。ジョン・ローが一時的にせよ非常に効果的に利用した金融インフレの種が、カリフォルニアでの金の発見と1849年に始まる有名なゴールド・ラッシュによって植えつけられた。以後20年にわたってインフレによる景気の拡大が続き、今や金融インフレの種に芽を出させるのに必要なのは戦争そのものだった。景気拡大の成熟段階で起こる戦争は、経済の息の根を止めかねない。こういう戦争はインフレを狂乱状態にまで推し進める一方、資金はすべて戦費に吸い上げられるので、猛烈な投機の波を招くことになる。」(85頁)

「物価が上がると、人々は物価上昇は永久に続くと信じて、それを利用するためにできるかぎりの手段を講じて資金を追い求め、借り、実行して、無謀な借金を正当化する。しかし、クレジットというのは、帳簿の片側に記入することでしかない。銀行が破産し、企業が倒産し、資金価値が崩壊したら、そのクレジット――カネの代用物――は消滅し、値上がりした商品の代金を支払い、あるいは生産や商業の需要に応じるのに利用可能な資金が不足する。そうなると、物価構造全体がジェリコの壁のように崩れ落ちるのである。」(119頁)

これらの洞察や警句を読むと、いかにもこの度のサブプライムローンによる金融崩壊を指しているのではないかと思われるほど新鮮である。しかし、この本は、サブプライムローンの問題が発生する前の1998年には出版されているのだ。ということは、べックマンの予言能力が優れているということになるが、私に言わせれば、この予言は必ず当たるものなのだ。すなわち、資本主義には、市場の暴走がついてまわるということである。このことは、よくよく銘記しておく必要がある。

べックマンは最後に、「エピローグ――要因、警鐘、そして教訓」という章をもうけ、来るべき「崩壊」に対処するには、借金はできるだけ減らし手持ち現金を増やすこと、商業道徳の低下から身を守ること、低姿勢を保ち自分は自分と思うことを揚げ、この一巻の筆をおいている。

このベックマンの本を読むと、市場の暴走は資本主義の属性になっていることがよく分かる。と言うよりも、そのことが歴史によって証明されていると言ってよいだろう。ここでは、ほんの一端を紹介させていただいただけだが、詳しくはこの本を読んでいただくしかない。

それにしても、ここに書かれていることは、果たして「バブル」の歴史なのであろうか。私は、「バブル」でなく、「先取り」の歴史だと考えている。すなわち、価値が生まれる前に、実態のない、からっぽの価値を先にとってしまう「先取り」だからこそ、先取りされた「虚の価値」があちこちに潜り込んで経済や社会に大きなダメージを与えているのだ。――次回には「先取り」という、ものの見方について述べたいと思う。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/20にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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ケインジアンの理論に対する懸念

新自由主義に取って代わられる前に主流の位置を占めていたのは、ケインズ経済学である。ケインジアンの理論は、1929年の恐慌を克服するためのニューディール政策に採用され、ごくおおまかに言うと、以後1960年代まで各国の経済・財政政策の主流の座を守っていた。しかし、前回述べたように、景気過熱によるインフレ、巨大な財政赤字、公共事業や福祉政策の肥大化という現象が顕著になると、主流の座を新自由主義に譲るはめになった。

 ケインズ経済学の中で、とくに槍玉に挙げられていたところは、資本主義経済の自動調節機能は不完全であって、完全雇用や物価安定を実現するには、財政政策・金融政策などの政府による政策介入が必要である、とするケインジアンの考え方であろう。

 しかし、この度のような金融崩壊による不況と失業者の増加に直面すると、新自由主義の理論は一転して集中砲火を浴び、またしても、政府の財政出動を要請する声が高まってきた。そして、米国、欧州、中国、日本などが次々と政府の財政支出による金融機関、企業への救済措置をとるようになった。つまり、困ったときの神頼みではないが、「不況のときのケインズ経済学」と再登場を促され、今や、「財政出動」「財政出動」の大合唱である。

 確かに、当面の応急措置として、各国の政府が財政出動をすることはやむを得ないことであろう。しかし、ケインジアンの理論に対する批判は、インフレや財政赤字をもたらしたという歴史的事実を踏まえてのことだったはずである。だとすれば、ここで財政出動をすることは、その当時の批判が批判として復活することになる。具体的に言えば、財政支出によって多額の財政赤字を抱え込む各国の政府は、今後どうやってその財政赤字を解消するのであろうか。わが国を例にとると、2010年度予算案によれば、2010年度末の国債発行は637兆円(財政債を除く)の見込みであるが、これは一般会計の17年分に当たるという。これを一体どうやって償還するのだろうか。

 問題はそれだけでない。1960年代と異なって、経済はよい意味でも悪い意味でもグローバル化している。したがって、最近のドバイの財政危機に見るように、一国の財政支出やその結果の財政破綻が、ただちに他国の経済に影響を及ぼす。すなわち、一国の財政支出財政破綻がその国だけの問題にとどまることはないのである。

 ここで考えておかなければならないことは、各国の政府が財政支出を行うときに、それがどこに、どのように影響を及ぼすかということだ。そして、各国の政府の財政支出に対して、国際的なコントロールが利くかということである。新自由主義の理論を捨てて財政出動を是とする政策に乗り換えても、経済がグローバル化している限り大量の貨幣や信用が世界中を動きまわるのであるから、国際的なコントロールの必要性は同じである。ケインジアンの理論を復活させて財政支出をするとしても、この点を緻密に検討しておく必要があると思われる。

 金融システムを安定させることについては、昨年開催された主要7ヶ国(G7)の財務相中央銀行総裁会議や主要20カ国・地域(G20)の財務省中央銀行総裁会議でも議論された問題であるが、実際に国際的にコントロールができるかという問題になると、心許ない気がする。

 私が「先取り」という概念を使って金融や貨幣の問題を考察したのは、前(第2回)に述べたように1962年からであるが、私は、新自由主義の理論とケインジアンの理論は二者択一ではなくて、楯の両面だと考えている。市場をうまく利用できる段階には前者がもてはやされ、市場が破綻すれば後者が正当性を帯びる。ただそれだけのことであって、根は同じである。

 では、どこが同じなのか。

 すなわち、価値が生まれる前に、実体のない価値、空っぽの価値を先に取ってしまう「先取り」という点では、新自由主義の理論による政策も、ケインジアンの政策も、相違がないということである。

 新自由主義の理論を捨てて、ケインジアンの理論が復活させても、個人レベル、企業レベル、国家レベルの「先取り」が行われることは確かであるが、この段階では、厖大な国債の発行という国家レベルの「先取り」が行われて、やがては経済的、社会的なダメージを与える。このことは、少し考えれば分かることであるが、何よりも歴史が証明している。

 資本主義の時代に入ってから、人類は延々と「市場」を使って、この「先取り」を繰り返してきた。そして、市場は度々暴走する。その市場の暴走を、今現在の人々も見せつけられているのだ。

 前回、ケインズ経済学と現在の標準的マクロ経済学の双方とも、今回の世界的な金融危機を扱うだけの能力がないと指摘した朝日新聞の論説を紹介したが、それは双方とも、「先取り」という歴史的事実が念頭にないばかりか、むしろ「先取り」を容認、助長する論理だからではないだろうか。

 それでは、どのように市場は暴走してきたのか?

 次回に、その歴史をひととおり見ておこう。それを見れば、これまで「バブル」と言われていたものが、実は「先取り」であることが分かるだろう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/13にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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新自由主義に対する批判について

世界的な金融崩壊を目の当たりにしたとき、いったいこれまでの経済学は何をしていたのか、という疑問が湧いてくる。2009年1月31日付け朝日新聞の「けいざいノート」欄の『金融危機が与えた宿題』というタイトルの論説は、同様の疑問を述べたうえで、次のような言葉で結ばれている。

「貨幣」の問題を中心に据えるケインズ経済学と現在の標準的マクロ経済学との間の二者択一ではない、「第三の道」が見えてくる。(経済産業研究所上席研究員小林慶一郎)

 この論説の中では、ケインズ経済学と現在の標準的マクロ経済学の双方とも、今回の世界的な金融危機を扱うだけの能力がないと指摘されているのであるが、その点について、若干の考察をしておきたい。

1929年のニューヨーク株式市場の大暴落から始まる大恐慌に対して、F・ルーズベルト大統領が採用したニューディール政策財政出動を促した。そして、そのことが恐慌克服に繋がったと言われている。もっとも、この恐慌は、ニューディール政策によって克服されたのでなく、第2次世界大戦にまで持ち越されたのだとも言われているが、それはともかくとして、この政策はケインジアンの理論と合致するものであったことは事実であろう。

しかし、財政政策・金融政策などの政府による政策介入の必要性を説くケインジアン流の経済政策は、景気過熱によるインフレ、公共事業や福祉政策の肥大化という顕著な現象をもたらし、1960年代になると、ケインジアン流の経済政策が財政赤字をもたらす元凶のように見られて風当たりが強くなり、やがて新自由主義の思想に主流の地位を譲ることになった。

こうして2008年の金融崩壊直前までは、小さな政府、市場メカニズム、自己責任を核に据える新自由主義的なマクロ経済学が主流の座を占めていた。この新自由主義の思想は、イギリスにサッチャー首相、アメリカにレーガン大統領が登場して、政策として実施された。そして、日本でも歴代政権がこの政策を追従していたが、そのことについては長々と解説する必要はないだろう。

ところで、この新自由主義の思想の根幹は、「金融市場のさまざまな変数は均衡値に向かって収斂する傾向にある」というパラダイム(理論的枠組)である。つまり、簡単にいえば、市場でさまざまなことが起こっても、やがて均衡値に達して落ち着くから、自由放任が一番よいのだという考え方である。

しかし、自由放任にしておけば、ほんとうに均衡値に達するのだろうか。また、均衡値に達するか否かにかかわらず、自由放任にしておくプロセスの中で、あるいは結果において、何か問題が起こらないものなのだろうか。

まず、自由放任にしておけばやがて均衡に達するという点であるが、これはまったく幻想に過ぎない。市場はときどき、暴走して手がつけられなくなる。後に述べるように、これは人類が何度も煮え湯を飲まされた経験則である。

20世紀最大の投資家といわれているJ・ソロスも、この経済学上のパラダイムは偽りでしかなく、この誤ったパラダイムを基盤にして国際金融システムが築かれたことこそが、現在の世界経済危機の主たる原因だ、と言っている(ジョージ・ソロス著・徳川家広訳・松藤民輔解説『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』講談社・21頁)。

すなわち、市場はやがて均衡値に達するというパラダイムは、パラダイムだけに留まっていない。そのようなパラダイム金科玉条にして、さまざまな仕組みやシステムや制度がつくりあげられる。そのことがパラダイムの誤りを単なる誤りに留めておかずに、誤りを拡大化させてしまうのである。

例えば、アメリカがつくった国際金融システムは、世界中に自分たちに都合のよい壮大な仕組みの網を張り巡らし、サブプライムローンを梃子にして、膨大な「先取り」をしてしまった。

「先取り」?――前(第2回)に述べたように、「先取り」とは、「価値」を生み出す前に先に取ってしまう経済現象であるが、「価値」という言葉が分かりにくいのであれば「富」という言葉に置き換えてもよい。サブプライムローンの例で言えば、個人レベルで「将来の収入」を先取りし、企業レベルで「将来の利益」を先取りしたと言えば分かりやすいだろう。つまり、先取りをした段階では中身のない空っぽの「価値」、すなわち、「価値」とも言えない空虚なもので、これを私は「虚の価値」と呼んでいるが、この「先取り」された虚の価値があちこちに潜り込んで、企業の活動や人々の生活を破壊したのである。その仕組みについては後に述べることにしたい。

自由放任を旗印にした新自由主義パラダイムを基盤にして経済や政策が動かされていた結果、どのような問題が起こったのだろうか。

この点については、もはや顕著な結論が出ているので、詳しく説明をするまでもなく、項目だけを列挙することで足りるだろう。

まず、景気の悪化、生産規模の縮小、企業倒産の増加。そして、株や金融商品の暴落による損失の発生、個人破産。見渡せば、貧富の差、格差の拡大、中間層の消失。さらに、派遣切り、人員削減、失業者の増加。環境破壊。犯罪の増加、治安の悪化。

繰り返すことになるが、これらの経済現象とそれが引き起こした社会現象は、「先取り」という概念を使って分析すると筋道が見えてくる。すなわち、「バブル」という言葉では説明がつかないのである。

「先取り」という概念は、今のところ私だけが使っている分析道具だが、新自由主義が横行していたときにも、個人レベル、企業レベル、国家レベルの「先取り」が盛んに行われていたことは、誰でもすぐに思い当たるであろう。しかし、前にも見たように、新自由主義が隆盛なときには、サブプライムローンに代表されるような企業レベルの「先取り」が目立った動きをして、経済的、社会的ダメージを与えるのである。

私が経済的、社会的ダメージを受けた結果の悲惨な状況をいちいち取り上げて論ずるとしたら、それは読む人の情緒に訴える力にはなるだろうが、しかし、それだけでは「資本主義が終わっている」という論証をしたことにならないだろう。この論考は、「資本主義は終わっている」という事実を論証することを目的にしているのであって、「資本主義は終わるべきである」と主張するものではない。しかし、「資本主義は終わるべきである」という観点から現実を認識する方法はあり得るのであって、その方が強いインパクトを与えることは確かだろう。しかも、それが映像であるならば、訴える力はいっそう大きくなる。その意味で、マイケル・ムーア監督の映画『キャピタリズム マネーは踊る』を鑑賞することをお勧めしたい。

ともあれ、新自由主義がもたらした結末については、新自由主義から転向した人も交え、多くの論者が指弾するところであって、今や新自由主義は、集中砲火を浴びている状態であると言えよう。

もとより、このような状況に至るまでには、うまい汁を飲んだ人がいるに違いない。その人たちはまた、集めた金を投資して、世界の経済を動かしたという自負を持っているかも知れない。確かにこの間に、新興国の経済は高成長を続け、人々の生活レベルも向上した。そして、経済の中枢にいない人々や企業であっても、それなりのおこぼれにあずかった。だが、それにしても、支払った代償、これから支払うべき代償は大き過ぎると言わなければならないだろう。

しかし、「金融市場のさまざまな変数は均衡値に向かって収斂する傾向がある」という経済学上のパラダイムが誤りであること、そしてこのパラダイムのもとで実施されたさまざまな政策のために目も当てられない結果になったことは、誰の目から見ても明らかだとしても、そのことを指摘するだけではそれだけのことになってしまう。

 すなわち、このようなパラダイムが横行した真の原因をつきとめて、根絶しておかなければならない。

 そのことを突き詰めて考えれば、強欲、利他的な考え方の欠如等、原因はモラルの問題に見えてくる。そして実際に、モラルの問題とする論調が少なからず見受けられる。しかし、それも重要な要素だと思うが、このパラダイムは、基本的には経済の問題である。したがって、モラルを問題にする前に、経済現象の中に答を突き止めることが必要なのではないだろうか。

 私はここで、価値が生まれる前に先に取ってしまう「先取り」に原因を求めているが、そのことについては後に詳論することにして、その前に、新自由主義の理論に対峙するケインジアンの理論を次回に見ておくことにしたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/06にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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続々・なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか

前回前々回に、なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか、その理由について、第1から第4までを述べた。今回は私なりに思いついた5つの解答のうちの第5の理由について述べる。

すなわちそれは、「資本主義は終わっている」と薄々気づいていても、資本主義の次にくる時代の名称がないから、明確に認識できないのではないだろうか、ということである。

つまり、「資本主義の時代が終わって今や○○主義の時代だ」と言えるような名称があれば別であるが、まだ○○に該当する言葉がない。あちこちでいろいろな言葉が使われているが、「資本主義の時代」と対等に渡り合えるような言葉は存在しないと言ってよいだろう。少なくとも、私は知らないし、一般のコンセンサスを獲得したような言葉はまだないと思われる。

しかし、資本主義が相当変質していることについては、広く認識されている。これは確かであって、変質の内容や時代の趨勢を反映して、独占資本主義、金融資本主義、グローバル資本主義、マネー資本主義はては強欲資本主義などと、形容詞を頭につけて語られることは多い。しかし、いくら形容詞をつけても、うしろに「資本主義」という言葉がくれば、この時代を言い尽くしたことにはならないと思う。

このことを少し考えてみよう。

後に詳しく述べるが、資本主義経済における社会の規範関係は、私的所有、契約、法的主体性の3つの要素が基礎となっている(川島武宜民法総則』2〜4頁)。すなわち、資本主義の最も基本的なルールは、ひとりひとりの人間が領主の封建的支配から脱して法的に主体性を持ち、その主体性を持った個々人が商品などの物を所有することが保障され、自由に契約、すなわち取引をすることが認められることであって、資本主義は、この私的所有、契約、法的主体性の基礎のうえに成り立っているのである。

 ここで、私的所有に的を絞るとすると、おおまかに言えば、生産、金融、流通までは私的所有の対象になるから、これらは資本主義の射程内に入ると言ってよいだろう。しかし今や、私的所有の対象とならないところに大きな問題が起こっている。もとより、その射程内に入る問題の中でも「資本主義は終わっている」という現象があらわれており、そのことこそが本稿の主要なテーマなので後に詳しく述べるが、それはさて措いて、ここでは別の角度から分かりやすい例を1つ挙げておこう。

 この12月7日にデンマークコペンハーゲンで開幕した国連気候変動枠組み条約締結会議(COP15)は、地球温暖化という人類が直面する脅威に対して、どのようにして温室効果ガスの排出量を削減するかという問題がテーマになっている。ここで問題になっている温室効果ガスは、生産過程などで排出されるものではあるが、私的所有の対象にならない。つまり、温室効果ガスが誰のものかということは意識にさえのぼっていないように思われる(資本主義では、常に誰のものかが問題になる)。また、途上国への資金援助策が会議の焦点になったが、この資金援助は、拠出する主体、方法はもとより、対価、報酬を目的とする資本主義の経済循環とは別のものになるはずである。

 すなわち、120近くの国・地域の首脳が集合し、190に及ぶ国・地域が取り組むべきこの時代の愁眉の大問題が――それはまさしく経済問題でもあるにもかかわらず――資本主義の射程の外に出てしまっているのである。

 このことは、「資本主義」という言葉では、この時代を語ることができなくなっているということではないだろうか。すなわち、今現在のこの時代を語るにしては、

 「資本主義」では器が小さすぎる

のである。

 そこで、「資本主義の時代」に代わる「○○主義の時代」と言うことができればよいのだが、ここで見落とせないのは、ドラッカーのポスト資本主義という認識であろう。彼は、「先進国は、社会としては、すでにポスト資本主義社会に移行している」と言い、知識社会への移行を説いているが(ドラッカー著・上田淳生訳『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド社・6頁〜11頁)、もう少し経済を包括的に取り込んだ名称が欲しいような気がする。

 後世の歴史家は何と名づけるか知らないが、戦国時代の次は封建時代、封建制度の時代の次は資本主義の時代というように、資本主義の時代の次の○○主義の時代というふうに語られる時代にすでに入っているのではないだろうか。

 だとすれば、○○に該当するところに単語を入れて、この時代、そしてこれから先少なくとも70年間ぐらいもつようなネーミングをしておく必要があると思う。そして、その時代に対する名称を人々が共有することができれば、今現在がどんな時代なのか、これから先に何をすべきか、ということが見えてくると思われる。

 私は、仮にネーミングするとすれば、○○に該当する言葉として、「共存」という単語を充てたい。これは、何だかんだと言っても現実に地球上に人類が生活し、さまざまな仕組みをつくって共存している事実に着目したものであるが、率直のところ、これからうまく共存して生きてゆこうではないかという願いもこもっている。

 「共存」と似ている言葉に「共生」という言葉があり、すでに「共生」に関する多くの著作がある(例えば、内橋克人『共生経済が始まる 世界恐慌を生き抜く道』(朝日新聞社)。「共生」という言葉には魅力があり、私も「共生」でよいのではないかと考えてみたが、のちに述べるように、「共生」と「共存」では言葉のうえで微妙な相違がある。私がこの論考で述べる内容に関する限り「共存」の方がよりピッタリするので、ここでは、仮に○○に「共存」を入れて、論考を進めたいと思う。

 誤解のないように言っておくが、「共存主義」というネーミングから分かるように、私は、資本主義的生産方式を否定しているわけではない。まして、資本主義の基礎をなしている「自由」を否定しているわけではない。「自由」の意味は多義的であり、それをどのように捉えるかは難しい問題であるが、そのことはともかくとして、私は、責任を持って何かをするときに束縛がないという本来の意味の「自由」は、最も尊重すべき人間の価値だと思っている。

 そこで、一応

 資本主義の時代はすでに終わっている。今や、共存主義の時代である

と言っておこう。しかし、「共存」よりよいネーミングがあれば、私としては、「共存」という言葉にこだわるつもりはない。

 以上が、「なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか」という問に対する私なりの解答である。

 ここまでが序章であるが、これからは、「資本主義が終わっている」ことを詳しく論証し、それから先に何が見えてくるかを考察したいと思っている。そこで次回は、これまでの経済学の流れをおおまかに振り返ることから取りかかることにする。(廣田尚久)

※本エントリは2009/12/23にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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