いわゆる「バブル経済」の歴史

資本主義の歴史は、市場の歴史でもある。そして、市場はしばしば暴走した。つまり、資本主義には絶えず市場の暴走がついてまわっていたのだ。

さて、ここに2冊の本がある。

1冊は、ジョン・K・ガルブレイズの『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』(鈴木哲太郎訳・ダイヤモンド社)である。

この本の中で、ガルブレイズは、17世紀初頭のアムステルダムに現れた最初の近代的な株式市場を舞台にして、チューリップを道具とする大がかりな投機が爆発したことを紹介している。私が要約したり解説したりするとニュアンスが十分に伝えられない恐れがあるので、しばらくガルブレイズを引用させていただくことにしたい(なお、この本は2008年に新版が出版されているが、ここでは旧版を引く)。

「われ先に投資しようとする動きがオランダ全体を呑み込んだ。多少なりとも感受性のある人は誰しも、自分だけがとり残されてはならないと思った。価格は、途方もなく上昇した。1636年になると、それまでにたいして価値があるとは思われなかったような一箇の球根が、「新しい馬車一台、葦毛の馬二頭、そして馬具一式」と交換可能なほどだった。」(50頁)

 「貴族、市民、農民、職人、水夫、従僕、女中、さらには煙突掃除夫や古着屋のおばさんまでがチューリップに手を出した。あらゆる階層の人々がその財産を現金に換え、それをこの花に投資した。土地・建物はとんでもない安値で売りに出され、あるいはまたチューリップ市場でなされた取引の支払いのために譲渡された。外国人も同じ熱に襲われ、あらゆる所からオランダへ金が流入した。日用必需品の価格は次第に上昇した。それに伴って、土地・建物、馬と馬車、そしてあらゆる種類のぜいたく品の価格も高くなった。(中略)これは全くすばらしいことであった。オランダ人の歴史を通じて、彼らがこれほど恵まれたように思われたことはなかった。こうしたエピソードを支配する不変の法則どおり、価格が上昇するごとに、より多くの人が投機へ参入する気になった。このことがまた、すでに投機へ参加している人の希望を正当化し、彼らがさらに買い進んで価格が上昇する道を拓きいっそうの致富が際限なく続くことを保証した。買うために借金がおこなわれた。小さな球根が巨額の貸付の「てこ(レバレッジ)」となったのである。1637年に終末が訪れた。ここでも一般法則どおり事態が進行した。どういう理由かわからないが、賢明な人や神経質な人が手を引き始めた。彼らが去って行くのが他の人々にわかった。殺到した売りはパニックとなった。価格は断崖を滑り落ちるように暴落した。それまで買っていた人は、その多くが資産を担保にしていた――これが「てこ」である――のであるが、突然一文無しになり、また破産した。裕福な商人が乞食同然となり、多くの貴族の家産が回復不能の壊滅に陥った。(中略)不運に見舞われたのは昨日の金持ちばかりではなかった。チューリップ価格の暴落とそれによる貧困化は、その後のオランダ経済に深刻な影響を与えた。すなわち、今日の用語で言えば、長期にわたるかなりの程度の不況が続いたのである。」(53〜56頁)

ガルブレイズは、さらに18世紀におけるフランスのジョン・ロー事件、イギリスのサウスシー・バブル、19世紀アメリカの不動産投機と崩壊、1929年の大恐慌、1987年のブラック・マンデーに言及し、次々にあらわれたバブルが一国の経済を疲弊させた歴史を語っている。そして、「日本語版への序文」の中で、1980年代の日本における「バブル」についても言及し、「不労所得がこれほど目ざましく生じたことは、世界史上これまで全くなかった」と述べている。

ガルブレイズによれば、大がかりな投機が起こるときには、いつも金融の才のある仕掛人がいて、何か新奇らしく見える金融操作を発案する。投資する大衆は、その金融の天才に魅惑され、そのとりこになってしまう。しかし、「金融上の操作はおよそ革新になじまないものである。」とガルブレイズは断言し、次のように忠告する。

「陶酔的熱病(ユーフオリア)が生じると、人々は、価値と富が増えるすばらしさに見ほれ、自分もその流れに加わろうと躍起になり、それが価格をさらに押し上げ、そしてついには破局がきて、暗く苦しい結末となるのであるが、こうした陶酔的熱病が再び起こったときに、規則であるとか、正統的経済学の知識のようなものは、個人や金融機関を守る働きはしない。陶酔的熱病の危険から守ってくれるものがあるとすれば、それは、控え目に言っても集団的狂気としか言いようのないものへ突っ走ることに共通する特徴を明瞭に認識することしかない。このような認識があって初めて、投資家は警戒心を持ち、救われるのだ。」(18頁)

もう1冊は、ロバート・べックマンの『経済が崩壊するとき――その歴史から何が学びとれるか』(斎藤精一郎訳・日本実業出版社)である。

この本は、歴史に名高い大暴落や恐慌(クラッシュ)について、それらがどのようにして起こり、どのような結末を迎えたかを具体的にかつ読み物風に摘出したものである。チューリップ球根投機、サウスシー・バブル、ジョン・ローの事件などの他に、アメリカの強盗成金ジェイ・グールドが演出した1873年の大暴落、1920年代のフロリダにおける不動産投機と暴落、そして、第1次世界大戦後のドイツにおけるマルクの大幅な下落。このマルクの下落についてここで引用しておこう。

「当時のいくつかの話も、今になってみると非常に面白く思える。たとえば、ある学生がメニューでは5000マルクになっているコーヒーを注文した。2杯目を飲もうと思ったが、その間にマルクはさらに暴落していた。店主は早速、値段を9000マルクに修正したが、これは学生が払える限度の金額だった。彼はこう忠告されたという。「お金を節約して、しかもコーヒーを2杯飲みたかったら、1度に2杯注文することだよ。」(186頁)

「こういう話はいくらでもあるが、他の国の通貨と比べたはなしもある。ニューヨーク・タイムズ紙は、ベルリンのある「2流レストラン」にやって来た旅行者の話を紹介している。彼は1ドル札を見せびらかすと、それで食べられる料理を全部出すように言った。豪勢な料理が出てきた。さて、もうすぐ食べ終わるというときになって、ウェイターがスープとアントレをもう1皿ずつ持ってきた。そしてうやうやしく頭を下げると、「お客様、ドルがまた上がりました」と言ったという。」(同頁)

このような極端な通貨の下落は、21世紀になった今ではあり得ないと思ったら大間違いである。次のような記事を読んでみよう。

「アフリカ南部のジンバブエ中央銀行は2日、同国通貨ジンバブエ・ドルを1兆分の1にするデノミネーション(通貨呼称単位の変更)を発表した。地元政府系ヘラルド紙が報じたもので、1兆㌦が1㌦となる。1日時点の為替相場は、1米㌦(約90円)が約4兆ジンバブエ㌦だった。新たに1㌦札から500㌦札の7種類の紙幣を発行する。中央銀行は09年を経済危機脱出の転換点にしたいとしている。ジンバブエは年率2億%を超すインフレに見舞われており、昨年にも100億㌦を1㌦とするデノミを実施。先月には、国内の商取引で米ドルやユーロなど外国通貨を使用することを認めた。しかし、インフレは収まらず、最高額紙幣10兆㌦札が流通し、先月には100兆㌦札の発行予告もあった。」(2009年2月3日付け毎日新聞夕刊)

これは、日本から遠く離れたアフリカ南部の国の話だと思うのならば、日本銀行券のほかに政府が独自に発行する「政府紙幣」構想が自民党内で浮上していたという同日付けの記事(2009年2月3日付け朝日新聞)に対して、どのような感想を持たれるだろうか。記事の中では、過度のインフレ懸念が指摘されており、実現性が疑問視されている。民主党に政権が変わったので、この目はないと思われるが、それにしてもこのような構想が浮上すること自体薄気味悪い。

それはさておき、べックマンを読み進めよう。べックマンの筆は、1929年の大恐慌、1933年にアメリカで頻発した銀行の倒産、ネルソン・バンカー・ハントというギャンブラーの銀市場操作と1980年の暴落、1970年代のイギリスにおける金融緩和政策と不動産ブームそして泡の崩壊、1987年のブラック・マンデーへと続いている。

これらはいずれも、息を飲むような劇的な事件である。そしてべックマンは、ところどころに鋭い洞察と貴重な警句を織り込めている。そのいくつかを拾ってみよう。

「不景気を経て、好景気を支える条件が変わりはじめた。ジョン・ローが一時的にせよ非常に効果的に利用した金融インフレの種が、カリフォルニアでの金の発見と1849年に始まる有名なゴールド・ラッシュによって植えつけられた。以後20年にわたってインフレによる景気の拡大が続き、今や金融インフレの種に芽を出させるのに必要なのは戦争そのものだった。景気拡大の成熟段階で起こる戦争は、経済の息の根を止めかねない。こういう戦争はインフレを狂乱状態にまで推し進める一方、資金はすべて戦費に吸い上げられるので、猛烈な投機の波を招くことになる。」(85頁)

「物価が上がると、人々は物価上昇は永久に続くと信じて、それを利用するためにできるかぎりの手段を講じて資金を追い求め、借り、実行して、無謀な借金を正当化する。しかし、クレジットというのは、帳簿の片側に記入することでしかない。銀行が破産し、企業が倒産し、資金価値が崩壊したら、そのクレジット――カネの代用物――は消滅し、値上がりした商品の代金を支払い、あるいは生産や商業の需要に応じるのに利用可能な資金が不足する。そうなると、物価構造全体がジェリコの壁のように崩れ落ちるのである。」(119頁)

これらの洞察や警句を読むと、いかにもこの度のサブプライムローンによる金融崩壊を指しているのではないかと思われるほど新鮮である。しかし、この本は、サブプライムローンの問題が発生する前の1998年には出版されているのだ。ということは、べックマンの予言能力が優れているということになるが、私に言わせれば、この予言は必ず当たるものなのだ。すなわち、資本主義には、市場の暴走がついてまわるということである。このことは、よくよく銘記しておく必要がある。

べックマンは最後に、「エピローグ――要因、警鐘、そして教訓」という章をもうけ、来るべき「崩壊」に対処するには、借金はできるだけ減らし手持ち現金を増やすこと、商業道徳の低下から身を守ること、低姿勢を保ち自分は自分と思うことを揚げ、この一巻の筆をおいている。

このベックマンの本を読むと、市場の暴走は資本主義の属性になっていることがよく分かる。と言うよりも、そのことが歴史によって証明されていると言ってよいだろう。ここでは、ほんの一端を紹介させていただいただけだが、詳しくはこの本を読んでいただくしかない。

それにしても、ここに書かれていることは、果たして「バブル」の歴史なのであろうか。私は、「バブル」でなく、「先取り」の歴史だと考えている。すなわち、価値が生まれる前に、実態のない、からっぽの価値を先にとってしまう「先取り」だからこそ、先取りされた「虚の価値」があちこちに潜り込んで経済や社会に大きなダメージを与えているのだ。――次回には「先取り」という、ものの見方について述べたいと思う。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/20にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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