共存主義の基礎

この論考を連載している最中にも、その内容を証明する事実が次々に起こってくる。一昨日の報道によれば、ギリシャの財政危機で世界の金融市場が動揺しているのを受け、�米連邦準備制度理事会日本銀行など世界6中央銀行が協調してドル資金の市場への供給を再開、�欧州中央銀行がユーロ圏の国債市場に介入、国債買取りを実施、�EUが欧州の財政危機に備える最大7500億ユーロ(約89兆円)の「欧州安定化メカニズム」を創設、という緊急対策が打ち出されたという(2010年5月10日付け朝日新聞夕刊)。

これは確かに必要な緊急対策であろうが、所詮対症療法に過ぎないように思われる。こういうときこそ、ギリシャの財政危機をもたらした「先取り」という原因を厳しく認識し、病状の全容を知ったうえで、資本主義の次の時代――共存主義――の基礎を固める作業にとりかからなければならないと思う。

資本主義の基礎は、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の3つの要素からできているが、体制が変わるのであれば、その基礎はガラリと変更されなければならない。そこで、共存主義の基礎は、どのようになっているのだろうかということについて、以下に考察しておきたい。ただ、共存主義の基礎は、まだ完全に固まっているとは言えないので、あるべき基礎という要素が入っていると理解していただきたい。それは、言葉を換えれば、理念的な共存主義の基礎であって、現実に常に存在する基礎ではないということである。そのことは、資本主義の「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という基礎も、理念的な基礎であって、現実に常に存在する基礎でなかったことと同じである。

そこで、共存主義の基礎であるが、まず前提として、資本主義の基礎との基本的な違いを述べておきたい。

資本主義の「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という要素は、近代が尊重する科学的な合理性を背景にして、非合理的な要素を極力排除している。そのために抽象性が高く、全体的にスケールが小さくなっている。これに対し、共存主義は、人間性を尊重し、科学的な合理性だけでなく非合理的な要素も取り込んで、スケールの大きな基礎を構築する必要がある。

ところで、これまで「基礎」という言葉をつかっていたが、川島武宜教授によれば、「資本制経済=社会の規範的構造」について、「商品交換をその普遍的な構成要素とする資本制経済では、これらの三つの要素がその規範関係の普遍的な基礎となっている。」とされている。(『民法総則』有斐閣・3頁)

これを図式的に言うと、資本主義は商品交換を構成要素として前提とし、規範関係の普遍的基礎として「私的所有」、「法的主体性」、「契約」を構築し、その上に法的、社会的な規範を組み立てて、その規範に則って世の中を動かすという構造を持っているということになる。

そこで、この資本主義の構造と比較しながら共存主義の基礎を考察することにしたいが、まず前提として、共存主義では、商品交換だけを構成要素としない。すなわち、商品交換だけを前提とすると、売買あるいはせいぜい消費によって完結するが、共存主義では、売買や消費のところで完結するとは考えない。すなわち、共存主義では、商品交換以外のことも視野に入れる。

例えば、地球環境については、生産過程や消費後に排出される温室効果ガスなどの排出物の処理が問題になる。2009年12月にコペンハーゲンで開催された国連気候変動枠組み条約締結会議(COP15)では、産業革命以前からの地球の気温上昇を2度以内に抑えるべきだとの科学的見解を確認するという政治合意がなされたが、そのためには、商品交換だけを前提にしたのでは達成できないことは明白である。その段階で経済循環がある以上、共存主義はそこまで包摂するものでなければならない。すなわち、前提の段階ですでに、資本主義ではどうにもならない状態になっているのである。

ここで規範関係の普遍的基礎に入るが、まず「私的所有」。前(第18回)に述べたとおり、現在では「私的所有」を貫徹することはできず、そのかなりの部分が「公的所有」に置き換わっているが、「私的所有」と「公的所有」の混在という形から、さらに進めてその2つ以外の所有形態をも尊重して、きめ細かく基礎を構築するのが共存主義である。

もともと所有権というのは、「外界の自然に対する人の支配」である (川島武宜『所有権法の理論』岩波書店・5頁)。したがって、衣食住の有体物だけでなく、知的財産、エネルギー、電波も所有権の目的になる。これらが所有権の客体だとすれば、主体は、個人だけでなく、株式会社などの営利団体非営利団体、国や地方自治体などの公共団体などさまざまなものがある。この主体と客体との組み合わせによって、多様な所有形態があることが現実の姿であるが、私は、すべてを統一する概念ではなくて、客体に応じて、ある程度の幅のある所有概念を導入することによって、基礎を構築した方がよいと考えている。

 すなわち、個人の「衣」、「食」、「住」に対しては、「私的所有」を原則とする。ただし、「住」に対しては、「私的所有」だけでなく、「公的所有」や「私的所有と公的所有との組み合わせ」(例えば、ドイツの社会住宅のようなもの)も並存させる。これは、土地、建物に対する所有形態を変更させることを意味するが、このことは、「所有」だけでなく、「使用」に重心を移すことになる。

 土地の所有形態としては、近代以降解体の運命を辿っている入会権を見直すことも考慮したい。入会権は、村落共同体が慣習に基づいて、山林や原野や漁場などを共同で所有し、管理し、使用収益する権利であるが、村落共同体が全体として、かつ個々の構成員が同時に所有する「総有」という所有形態である。この総有形態によれば、全員の合意がなければその権利を処分することができないので、森林や自然を守ることができる。各地の防風林、水資源などを守り、環境問題に対処するためには、この総有形態が有益であるが、資本主義の「私的所有」が極限的な個々の「所有」を追い求めていたために、今や風前の灯になっている。

 しかし、共産主義のように生産手段をすべて社会的所有という名の国有にする必要はない。それが官僚システムを肥大化し、経済の停滞を招いたことは、旧ソ連によってすでに実験済みである。

 そこで問題となるのは、株式会社のあり方である。株式会社の所有形態は、株主が会社の株式を所有し、会社という独立の法人格が会社の財産を所有するという二重構造を持っている。そこで、株主主権主義などという理屈をふりかざして、株を買収して経営者の交代を要求したり、高額の配当を要求したり、果ては企業を乗っ取ったりということが一時流行した。これについて論ずればきりがないが、共存主義に立てば、経営を安定にするために、所有形態のあり方に一定の規制を設けることが必要になる。例えば、含み資産があれば乗っ取り対象として狙われるという事態をブロックするための規制は、どうしても必要だと考える。

 こうしてみると、共存主義の基礎となる所有形態に、何かネーミングをしておく方がよいのではないかと思われる。あえてネーミングするのであれば、以上のような所有形態を全部包摂して、「共存的所有」としたら如何だろうか。その中身は複雑で、また状況に応じて変動するものであるから、わざわざネーミングする必要はないのかも知れないが、これは、あまりにもスリムな「私的所有」という概念に対するアンチテーゼだと考えれば、意味のないことではないだろう。私は、豊かで大きなスケールの基礎を築きたいのである。

 次に、「法的主体性」であるが、これは要するに、共存主義の所有形態を反映する共存的所有の担い手としての主体性が基礎になる。もとより、資本主義の基礎となる法的主体性が基本であるが、時と場合によっては、公的価値概念にウエイトが置かれることがある。また、主体性が危殆に瀕する事態が発生することは避けられないので、各種の救済システムを貼り付けておく必要がある。

 そして「契約」も、共存的所有を反映する契約になる。たいていは資本主義が想定している所有権の目的物と貨幣との交換が行われることになるだろうが、共存主義のもとでは、生産過程や消費によって排出される廃棄物も支配の対象になるから、そのものに交換価値はなくても、合意すべき事項の対象になる。したがって、国際気候変動枠組み条約締結会議の政治合意をすることも、共存主義のもとでは、その範疇に入ることになる。このことに着目すれば、共存主義の基礎は、「契約」とするよりも、「合意」とする方がよいだろう。しかし、「合意」に至るプロセスにおいても。「合意」に到達した後においても、ある程度の紛争が発生することは不可避である。したがって、適切な紛争解決システムを貼り付けておく必要がある。紛争解決システムとしては、従来は訴訟が主体と考えられていたが、訴訟だけでは複雑な経済、社会から起こる紛争に対応できないので、裁判外紛争解決(ADR)を配備することが望ましい。

 以上により、ひとまず共存主義の基礎は打つことができた。これからは、この基礎の上に法的、社会的規範を構築し、その規範に則って世の中を動かすことになるが、ここで気になるのは、すでに「先取り」された空っぽの価値=「虚の価値」はいったいどうなるのか、ということである。この「虚の価値」が共存主義の基礎の中に潜り込んでいるのなら、基礎が空洞になっているが故に終わってしまった「資本主義」と同様に、共存主義も砂上に楼閣を築くことになってしまうだろう。

 ここが最も頭が痛いところだが、誤解を恐れずに敢えて言うとすれば、企業再生と類似の手法を使って、この「虚の価値」の部分を切り離し、別途に処理する方法を編み出すより他にないと思われる。その方法にはいろいろなものが考えられるが、やはり、そのための増税や部分的に徳政令に似た政策を採用せざるを得ないのではないだろうか。いずれにせよ、この問題は別途に、腰を据えて取り組む必要がある。(廣田尚久)

※本エントリは2010/05/12にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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