共存主義の未来像

前回述べた方法により共存主義の基礎を打つことができたとして、その基礎の上に、どのような未来を築くことができるのだろうか。この論考の最終回にあたり、共存主義の未来像について、ごく大まかなスケッチを描いておきたい。

 しかし、ごく大まかなスケッチと言っても、それを描くことは容易ではない。それは、数多くの複雑な問題を抱えている「資本主義」が立ちふさがっているからであるが、その障害に取り組むことを考えるだけでも、気の遠くなるような話である。

 とくに、経済のグローバル化によって、問題解決の困難さはひと昔前より数段高くなっている。例えば、金融市場のグローバル化によって、その影響は国境を越えて波及するから、何か問題が起こったときには、たちまち世界の隅々にまで広がってゆく。

モノの移動も国内だけでは語れなくなっているが、生産の着手から完成まで時間がかかり空間的な移動も簡単ではないモノと違って、金や信用の移動は光速に等しいスピードで移動させることができる。それだけでなく、モノ自体を膨らませることはできないが、金や信用ならばいくらでも膨張させることができる。

ここでやっかいな問題は、主権の及ぶ単位が国家という形でまとめられていることである。グローバルとか、グローバリズムといっても、それを束ねている組織が存在しないので、問題が起こったときに、その国の中だけで解決しようとしても、なかなかうまくゆかない。

国連などの機関があっても、それが扱っている事項はごく限られている。G7(主要7カ国財務相中央銀行総裁会議)で何かが決定されたとしても、それを具体化するのはそれぞれの主権国家であるから、実際に施策に反映させるかどうかは保証の限りではないのである。これは、いわば「グローバリズムの二重性」というべき現実であって、通常の商取引を担う層と問題解決の層とがマッチしていないのである。

以上のような困難性があるとしても、共存主義の未来像を描いておくことは必要であろう。私は、「未来」を構想するのであれば、その前提として、可能な限り「先取り」をしないこと、そして「先取り」を助長するシステムを極力排除することが肝要であると考えている。

例えば、オバマ大統領は、2010年1月21日に金融規制を強化する改革案を発表した。その改革案では、銀行と証券業務の垣根を高め、銀行が証券、債券などの自己売買を行うことや、ヘッジファンドを運営したり、それに投資することを禁止する内容になっている。もともとアメリカでは、1930年代の世界恐慌時に、銀行業務と証券業務の垣根を厳格に分ける「グラス・スティーガル法」が制定され、銀行がリスクの高い投資に傾斜することを防いできたが、1980年以降に規制緩和の流れが加速し、クリントン政権時の1999年に同法が撤廃された(2010年1月23日付け朝日新聞)。

この「グラス・スティーガル法」が撤廃されたことと、デリバティブなどの開発によって「先取り」が盛んに行われるようになったこととは軌を一にしており、その意味でオバマ大統領が金融強化を強化する改革案を打ち出したことは、「先取り」の防止に踏み出したものとして注目に値する。

なお、この金融規制強化案の発案者であるボルガー米経済回復顧問委員長は、2010年2月2日、米上院銀行委員会の公聴会で証言し、「強力な国際合意が適切だ」と述べ、日本を含めた各国が同様の規制強化をすべきだとの考えを示した(2010年2月4日付け朝日新聞)。さらに、同月5日から始まった先進7カ国財務相中央銀行総裁会議G7)で、ガイトナー米財務長官は、金融規制強化への協調を求めた(同月7日付け毎日新聞)。これらの発言は、私の言う「グローバリズムの二重性」を意識し、その克服の必要性を訴えたものと理解することができる。

いずれにせよ、アメリカの金融規制を強化する改革案のように、「先取り」をさせないという方向付けが、共存主義の未来像を描く前提として必要である。

グローバリズムの二重性」を克服する方法について、もう少し考えてみよう。

欧州連合(EU)の欧州委員会は、金融市場の信認回復と危機の再発防止に向け、国境を超えた横断的な監督機関の創設を進める方針を固めた。そして、欧州では「世界を一元的に監督するには限界があり、欧州でまとまる必要がある」との声が強まっているとのことである(2009年2月26日付け毎日新聞)。

また、東南アジア諸国連合ASEAN)と日本、中国、韓国の13カ国による会議がチェンマイで開かれ、対外債務の返済が困難になった国にドルを融通する「チェンマイ・イニシアチブ(CMI)」の規模を総額1200億ドル(約11兆円)に増やすことに決め、域内各国の経済情勢を独自に監視する専門チームをつくることでも合意し、国際通貨基(IMF)が支援を決めなくても必要に応じて独自に支援する枠組みを拡大する方針だと言う(2009年2月23日付け朝日新聞)。

世界を一元的に監督、管理することは難しくても、アジア、北米等々と他の地域で同じような機関を設け、それぞれの機関が連帯して取り組むことが必要であるし、また不可能なことではないだろう。このように、小さなコミュニティーからだんだん大きな組織に積み上げていって、国、地域という単位の連合体を組織し、その連合体が連帯してネットワークをつくることによって、グローバリズムの二重性を克服することが望ましいと思う。

この下から積み上げていって全体に至るという地道な仕事を成し遂げるためには、グローバリズムの上に位置づける上位概念がほしい。その上位概念としては、「資本主義」は今や力不足だろう。「市場原理」はその犯罪的所為によって退場を迫られているからである。そこで、その上位概念として「共存主義」を持ってきたい。

これまでは、グローバリズムが最上位の概念になっていたかの感があったが、連帯の契機を含まないグローバリズムは、野放図な「先取り」の温床になりかねない。したがって、「共存主義」をグローバリズムの上位概念に位置づけることが必要である。

「共存主義」を上位概念に置くとした場合、現実に、この地球上に、さまざまな人間や国家などありとあらゆるものが共存しているのであるから、それは当り前のことを言っているに過ぎないと言われるかもしれない。それはその通りであるが、ひとつの時代に対して「共存主義」とネーミングする以上、そこには評価的な要素が付加される。つまり、共存することはよいことだとか、共存しているのだから仲良くしようとか、皆が共存できるようにことを運ぼうとか、「共存」を意識することによって、行動の指針や目標などが見えてくるのである。

こうしてみると、「共存主義」の中身が重要になる。すなわち、「平和な共存」か「混乱した共存」か、「皆が食べてゆける共存」か「貧富の差が大きい共存」か等々、あらゆる場面で「共存」の質が問われることになる。

しかし、私があえて「共存主義」とネーミングしようという気持ちの中には、ネーミングすることによって、現実に存在している「共存」をレベルの高い所に持ってゆきたいという目的がある。そして、そのような目的を達成するのであれば、現に存在している具体的問題に、1つ1つ質の高い共存を目指して取り組んでゆかなければならない。

しかし、世の中には、膨大なファクターがあるので、1つ1つの問題をここで取りあげることはできない。この論考は、ごく大まかな総論であるから、「共存主義」の質を高めるときに念頭におかなければならないポイントだけを述べることにしたい。

 「共存主義」の時代は、暫定的なものかもしれないが、しかし、この時代になすべきことはたくさんある。それは第1に、資本主義の時代の後始末をすること。第2に、新興国の人々が中産階級になることに共同で参画すること。第3に、その次の時代に備えて、「共存主義」自体の中身の質を高めること。

私が考えているのは以上であるが、これらは同時進行で行われなければならない。そして、以下に列挙する要請にこたえる必要がある。

1 人々が自由であること、2 公平で平等な社会の構築、3存在を脅かされている人々を救済する措置がとられていること、4紛争解決システムの構築、5経済の恒常的な循環、6平和の実現、7民主的であって官僚的でない組織の構築、8持続的な環境保全、9循環型社会の構築

 以上の要請は、ジレンマに立っている。しかもそれは、複合的なジレンマである。したがって、人類が今までに経験したことのないような困難を伴うものであるが、これらの要請を同時に充たす「解」を出さなければ、これまでの繰り返しになるだろう。すなわち、ジレンマに立ち向かって、克服しなければならないということである。ジレンマがあるからといって尻込みするようでは何もできないし、世の中はよくならない。

ここで私が述べたことは、あたかもユートピアを描いているに過ぎないと笑われるかもしれない。しかし、あえて言えば、理想を嘲笑してあくなき利得を追求した結果がこの度の崩壊である。今や、理想を追求しなければ、人類は生き残ることはできない、と肝に銘ずる必要があると思う。すなわち、理想を追求することこそが、最も現実的な道なのである。そのためにこそ、「共存主義」を強く意識する必要がある。

 では、具体的にはどうすればよいのだろうか。ここから先は、膨大な政策論を展開しなければならないが、これについては、共生主義を提唱している先駆者の意見、提唱が参考になる(例えば、内橋克人『共生の大地 新しい経済がはじまる』(岩波新書))。「共生社会」、「共生経済」などの研究は、かなり以前から進められ、深められている。

率直に言って、私はまだ研究不足だが、各論の政策論に入る前提として、私が考えているポイントだけを述べさせていただくことにしたい。

第1に、もはや資本主義とは違うハイブリッド体制であることをリアルに認識することである。これは、人種、民族、信条、宗教、経歴、年齢、性別によって差別をしないということに通ずる。これまでは、「資本主義」の名のもとで、あまりにも差別をし過ぎた。これからは、「共存主義」でゆこうというコンセンサスを確立して、何びとをも否定せず、卑しめず、何びとからも収奪しないという確固たる意志を固めるべきである。

 第2に、国や公共団体による事業を抜本的に見直すことである。前に述べたように、国や公共団体が設立し、運営している仕事のシェアが大きくなり、そのことが資本主義の終焉の理由の一つになっているのであるから、そのことを率直に認め、事業を見直すことが必要である。例えば、「規制緩和」、「小さな政府」の掛け声のもとで、不採算部門の農林水産業が切り捨てられてきた。これを抜本的に見直し、失業者を公的資金で全員雇用して、農、林、水産業に従事してもらうというような思い切った施策が必要であろう。そうすれば、失業者の職と食が確保される。また、食糧自給率や木材自給率も上昇する。このようなことは、資本主義の枠の中ではできない。なぜならば、生産物の価格が低いために農林漁業に従事する人の労働が正当に評価されていないからである。そこで、農林漁業を半ば「公」のものとする「共存主義」のもとで、国や公共団体が手厚い補助をするべきであると考える。

 第3に、「計画」という要素を、どのように盛り込むかという難しい問題がある。「計画」は、多かれ少なかれ「自由」を束縛する。「自由」という人間の尊厳の基盤は最も尊重すべきであるが、そこから派生する「競争」を放置すれば、節度を失ってものごとを破壊する原因になる。したがって、節度ある競争は許されなければならないが、節度を保たせるために計画が必要だという発想が出てくるのは自然の成り行きになる。その計画が、将来の長期にわたるものであれば、自由に対する拘束性は高まることになる。ソビエトが崩壊して、社会主義経済の成り行きについてはほぼ結論が出た感があるが、現在の段階では、あまり拘束性の強い計画経済がうまくゆくとは考えられない。しかし、新自由主義的な自由放任のやり方が破綻した今日においては、計画経済に希望を託す動きは出てくるのではないだろうか。

 この場合、最も極端な計画は、全世界の生産力を計量し、それをどこに配置するか、物流するかを計画的に決定することであろう。これは、そのこと自体が望ましいかどうかという問題はあるが、仮に望ましいとしても、実現するのは極めて困難なことであろう。しかし、全世界的な視野に立って、情報を交換すること、部分的にまたは問題ごとに計画を立てること、あるいは基本的な計画や目標を立てることは、今後必要になってくるのではないだろうか。もし、そのような計画性がなければ、その隙を突かれて、また崩壊の危機にさらされることになるだろう。例えば、地球温暖化問題に対する京都議定書のようなものが、環境問題に限らず、経済、社会のいろいろな問題に対して要請されるようになると思われる。そのときに必要な概念が「共存主義」ではないだろうか。

共存主義の時代の未来に向けて、どのような具体的な方策を立てるかということは、極めて重要なことである。それはそのまま、共存主義の時代の制度設計になるだろうから、衆智を集めて取り組む必要があると思う。ここでは、その前提となるだろうと思われる点をいくつかあげてみたに過ぎない。前提問題に限定するにしても、ここに述べた以外にもたくさんあり、また、さらに重要な問題があると思われる。

「資本主義の時代はすでに終わっている。今や共存主義の時代だ」という私の意見に賛成される否かはともかくとして、「もしかしたら、時代は変わったのかもしれない」という観点でものを見れば、少なくとも、「瀕死の資本主義」にしがみついて誤りを犯したり、「血まみれの資本主義」の暴挙によって世界中が混乱の渦巻に落とされるようなことはなくなるだろう。

ギリシャの財政危機を端緒として、やがてヨーロッパ全土に経済危機が覆い、ついに世界全体に恐慌が及ぶのではないかという恐れを持っている人は少なくないだろう。今回のギリシャの問題は何とか凌ぐことができたとしても、「先取り」が続く限り、遠からず「その日」を迎える確率はかなり高いのではないかと思う。要は、「その日」を迎える前に、次の時代を築くことができるかどうかということである。私は、「資本主義は終わっている」ということを厳しく認識し、崩壊の日を迎える前に手を打っておく必要があると考えている。

この論考は、とりあえずここで終えることにするが、長い間にわたって、このブログを開いて下さった皆様、有難うございました。(廣田尚久)


※本エントリは2010/05/19にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
CNET Japan ブログネットワーク閉鎖に共ない移転しました。

共存主義の基礎

この論考を連載している最中にも、その内容を証明する事実が次々に起こってくる。一昨日の報道によれば、ギリシャの財政危機で世界の金融市場が動揺しているのを受け、�米連邦準備制度理事会日本銀行など世界6中央銀行が協調してドル資金の市場への供給を再開、�欧州中央銀行がユーロ圏の国債市場に介入、国債買取りを実施、�EUが欧州の財政危機に備える最大7500億ユーロ(約89兆円)の「欧州安定化メカニズム」を創設、という緊急対策が打ち出されたという(2010年5月10日付け朝日新聞夕刊)。

これは確かに必要な緊急対策であろうが、所詮対症療法に過ぎないように思われる。こういうときこそ、ギリシャの財政危機をもたらした「先取り」という原因を厳しく認識し、病状の全容を知ったうえで、資本主義の次の時代――共存主義――の基礎を固める作業にとりかからなければならないと思う。

資本主義の基礎は、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の3つの要素からできているが、体制が変わるのであれば、その基礎はガラリと変更されなければならない。そこで、共存主義の基礎は、どのようになっているのだろうかということについて、以下に考察しておきたい。ただ、共存主義の基礎は、まだ完全に固まっているとは言えないので、あるべき基礎という要素が入っていると理解していただきたい。それは、言葉を換えれば、理念的な共存主義の基礎であって、現実に常に存在する基礎ではないということである。そのことは、資本主義の「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という基礎も、理念的な基礎であって、現実に常に存在する基礎でなかったことと同じである。

そこで、共存主義の基礎であるが、まず前提として、資本主義の基礎との基本的な違いを述べておきたい。

資本主義の「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という要素は、近代が尊重する科学的な合理性を背景にして、非合理的な要素を極力排除している。そのために抽象性が高く、全体的にスケールが小さくなっている。これに対し、共存主義は、人間性を尊重し、科学的な合理性だけでなく非合理的な要素も取り込んで、スケールの大きな基礎を構築する必要がある。

ところで、これまで「基礎」という言葉をつかっていたが、川島武宜教授によれば、「資本制経済=社会の規範的構造」について、「商品交換をその普遍的な構成要素とする資本制経済では、これらの三つの要素がその規範関係の普遍的な基礎となっている。」とされている。(『民法総則』有斐閣・3頁)

これを図式的に言うと、資本主義は商品交換を構成要素として前提とし、規範関係の普遍的基礎として「私的所有」、「法的主体性」、「契約」を構築し、その上に法的、社会的な規範を組み立てて、その規範に則って世の中を動かすという構造を持っているということになる。

そこで、この資本主義の構造と比較しながら共存主義の基礎を考察することにしたいが、まず前提として、共存主義では、商品交換だけを構成要素としない。すなわち、商品交換だけを前提とすると、売買あるいはせいぜい消費によって完結するが、共存主義では、売買や消費のところで完結するとは考えない。すなわち、共存主義では、商品交換以外のことも視野に入れる。

例えば、地球環境については、生産過程や消費後に排出される温室効果ガスなどの排出物の処理が問題になる。2009年12月にコペンハーゲンで開催された国連気候変動枠組み条約締結会議(COP15)では、産業革命以前からの地球の気温上昇を2度以内に抑えるべきだとの科学的見解を確認するという政治合意がなされたが、そのためには、商品交換だけを前提にしたのでは達成できないことは明白である。その段階で経済循環がある以上、共存主義はそこまで包摂するものでなければならない。すなわち、前提の段階ですでに、資本主義ではどうにもならない状態になっているのである。

ここで規範関係の普遍的基礎に入るが、まず「私的所有」。前(第18回)に述べたとおり、現在では「私的所有」を貫徹することはできず、そのかなりの部分が「公的所有」に置き換わっているが、「私的所有」と「公的所有」の混在という形から、さらに進めてその2つ以外の所有形態をも尊重して、きめ細かく基礎を構築するのが共存主義である。

もともと所有権というのは、「外界の自然に対する人の支配」である (川島武宜『所有権法の理論』岩波書店・5頁)。したがって、衣食住の有体物だけでなく、知的財産、エネルギー、電波も所有権の目的になる。これらが所有権の客体だとすれば、主体は、個人だけでなく、株式会社などの営利団体非営利団体、国や地方自治体などの公共団体などさまざまなものがある。この主体と客体との組み合わせによって、多様な所有形態があることが現実の姿であるが、私は、すべてを統一する概念ではなくて、客体に応じて、ある程度の幅のある所有概念を導入することによって、基礎を構築した方がよいと考えている。

 すなわち、個人の「衣」、「食」、「住」に対しては、「私的所有」を原則とする。ただし、「住」に対しては、「私的所有」だけでなく、「公的所有」や「私的所有と公的所有との組み合わせ」(例えば、ドイツの社会住宅のようなもの)も並存させる。これは、土地、建物に対する所有形態を変更させることを意味するが、このことは、「所有」だけでなく、「使用」に重心を移すことになる。

 土地の所有形態としては、近代以降解体の運命を辿っている入会権を見直すことも考慮したい。入会権は、村落共同体が慣習に基づいて、山林や原野や漁場などを共同で所有し、管理し、使用収益する権利であるが、村落共同体が全体として、かつ個々の構成員が同時に所有する「総有」という所有形態である。この総有形態によれば、全員の合意がなければその権利を処分することができないので、森林や自然を守ることができる。各地の防風林、水資源などを守り、環境問題に対処するためには、この総有形態が有益であるが、資本主義の「私的所有」が極限的な個々の「所有」を追い求めていたために、今や風前の灯になっている。

 しかし、共産主義のように生産手段をすべて社会的所有という名の国有にする必要はない。それが官僚システムを肥大化し、経済の停滞を招いたことは、旧ソ連によってすでに実験済みである。

 そこで問題となるのは、株式会社のあり方である。株式会社の所有形態は、株主が会社の株式を所有し、会社という独立の法人格が会社の財産を所有するという二重構造を持っている。そこで、株主主権主義などという理屈をふりかざして、株を買収して経営者の交代を要求したり、高額の配当を要求したり、果ては企業を乗っ取ったりということが一時流行した。これについて論ずればきりがないが、共存主義に立てば、経営を安定にするために、所有形態のあり方に一定の規制を設けることが必要になる。例えば、含み資産があれば乗っ取り対象として狙われるという事態をブロックするための規制は、どうしても必要だと考える。

 こうしてみると、共存主義の基礎となる所有形態に、何かネーミングをしておく方がよいのではないかと思われる。あえてネーミングするのであれば、以上のような所有形態を全部包摂して、「共存的所有」としたら如何だろうか。その中身は複雑で、また状況に応じて変動するものであるから、わざわざネーミングする必要はないのかも知れないが、これは、あまりにもスリムな「私的所有」という概念に対するアンチテーゼだと考えれば、意味のないことではないだろう。私は、豊かで大きなスケールの基礎を築きたいのである。

 次に、「法的主体性」であるが、これは要するに、共存主義の所有形態を反映する共存的所有の担い手としての主体性が基礎になる。もとより、資本主義の基礎となる法的主体性が基本であるが、時と場合によっては、公的価値概念にウエイトが置かれることがある。また、主体性が危殆に瀕する事態が発生することは避けられないので、各種の救済システムを貼り付けておく必要がある。

 そして「契約」も、共存的所有を反映する契約になる。たいていは資本主義が想定している所有権の目的物と貨幣との交換が行われることになるだろうが、共存主義のもとでは、生産過程や消費によって排出される廃棄物も支配の対象になるから、そのものに交換価値はなくても、合意すべき事項の対象になる。したがって、国際気候変動枠組み条約締結会議の政治合意をすることも、共存主義のもとでは、その範疇に入ることになる。このことに着目すれば、共存主義の基礎は、「契約」とするよりも、「合意」とする方がよいだろう。しかし、「合意」に至るプロセスにおいても。「合意」に到達した後においても、ある程度の紛争が発生することは不可避である。したがって、適切な紛争解決システムを貼り付けておく必要がある。紛争解決システムとしては、従来は訴訟が主体と考えられていたが、訴訟だけでは複雑な経済、社会から起こる紛争に対応できないので、裁判外紛争解決(ADR)を配備することが望ましい。

 以上により、ひとまず共存主義の基礎は打つことができた。これからは、この基礎の上に法的、社会的規範を構築し、その規範に則って世の中を動かすことになるが、ここで気になるのは、すでに「先取り」された空っぽの価値=「虚の価値」はいったいどうなるのか、ということである。この「虚の価値」が共存主義の基礎の中に潜り込んでいるのなら、基礎が空洞になっているが故に終わってしまった「資本主義」と同様に、共存主義も砂上に楼閣を築くことになってしまうだろう。

 ここが最も頭が痛いところだが、誤解を恐れずに敢えて言うとすれば、企業再生と類似の手法を使って、この「虚の価値」の部分を切り離し、別途に処理する方法を編み出すより他にないと思われる。その方法にはいろいろなものが考えられるが、やはり、そのための増税や部分的に徳政令に似た政策を採用せざるを得ないのではないだろうか。いずれにせよ、この問題は別途に、腰を据えて取り組む必要がある。(廣田尚久)

※本エントリは2010/05/12にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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現在はすでに共存主義

私は、前(第1回)に、1つの体制が終わり次の体制に移行するときには、誰が見ても分かるようなメルクマール――ごく簡単に言うとすれば、転換の節目に武力が行使されることと、所有形態の変更が行われること――があると述べた。

 ところが、「資本主義」から次の時代――私のネーミングによれば「共存主義」――への移行は、武力が行使されていないから、非常に分かりにくい。しかし、所有形態の変更は徐々に進行し、もとに戻らないところにまで達しているので、現在はすでに「共存主義」になっていると言えよう。

とは言え、所有形態の変更も目立たないので、分かりにくい。これが「資本主義が終わっている」と認識されていない理由の1つだと思うが、今回の資本主義から共存主義への移行は、極めて特徴がある。

それは、旧体制を壊す勢力と新体制を作る勢力とが別であることだ。これまでは、例えば、坂本竜馬高杉晋作西郷隆盛大久保利通桂小五郎勝海舟三条実美は、その果たした役割はそれぞれであったが、旧体制を壊し新体制を作るひとかたまりの勢力の中で、ほぼ同じ方向を向いていた。

しかし、この度の資本主義から共存主義への移行は、壊す勢力と作る勢力が別である。まず、いったい何時移行されたのかという線を引きにくいところに問題があるが、私は、その線を、2008年のアメリカ発の金融崩壊によって、新自由主義の思想が退場したときに置いている。しかしこれは、壊した勢力はある程度分かるが、作る勢力がはっきり見えてこない。すなわち、少なくとも、壊した勢力と作る勢力が別であることは明白であるが、作る勢力があらわれたとも思われないところに、いっそうの分かりにくさがある。

このように考えると、資本主義から共存主義への移行が分かりにくいところに真の危険が潜んでいるのではないかと思い当たる。しかし、世の中を見回すと、「現在はすでに共存主義」という状況がたくさんあることに気付くので、その現象をひととおり見ておこう。

まず、現在では、富の蓄積→資本という形になるのでなく、いわゆる「資本」の調達方法そのものが変ってきている。これを、「資本」という概念を使わずに、事業を起こし、運営するための「資金」の調達という観点でものを見ると、おおまかに言って次の3つがある。

すなわち、――�個人、企業の私的蓄積を使い、または集めて資金とするもの、�国家その他の公的資金からの調達、�先取りによる調達の3つ。

 �〜�のシェアはどうなっているのか、私はまだ計量していないが、�〜�は、それぞれそれだけで完結するものではなく、入り組んで複雑なものになっている。�〜�のうち、�だけならば、資本主義と言ってよい。また、�があっても、「先取り」した企業体が確実に返済可能であり、そのことが経済社会に行き渡っているのならば、「資本主義」が健全に機能していると言ってよい。

 しかし、�のシェアが増え、�が返済不能の域に達すると、企業体を起こし、運営する資金は、資本として調達するものではないから、もはや「資本主義」とは言えなくなってくるのではないだろうか。

 とくに�の「先取り」による調達が亢進し、それが爆発して経済が破綻したときには、�にシフトされてゆくから、いっそう「資本主義」からは遠くなる。そして、市場に対するコントロールの必要性が叫ばれるようになると、もはや、「資本主義」と言うか言わないかは、言葉の問題になってくる。

また、そうなったとき、受け皿の企業体=経営体も株式会社とは限らなくなる。仮に、株式会社の形体を残したとしても、事実上政府の管理下に入ることもある。このような体制になったとき、それでも「資本主義」と言えるのだろうか。

しかし、断っておくが、私は、資本主義が全部終わっていると主張しているのではない。まだ市場や株式会社など、資本主義の中のいろいろな要素は残っている。そして、資本主義的生産方式は存続させ、健全な競争原理が機能する経済である方が望ましいと思っている。そのようなものを包摂している体制だからこそ「共存」なのである。しかし、金融市場が規制の対象にされたり、金融大手シティグループの株価の急落により国有化が懸念される例に見るように、もはや市場原理主義謳歌したような時代ではなくなっていることは確かである。そのことを考えれば、すでに「資本主義」から「共存主義」に移行していると言ってもよいのではないかと思う。

よく言われるように、現在の資本主義は、社会主義の政策を取り入 れている。しかし、社会主義の政策を取り入れるまでもなく、国や公共団体が設立し、運営している仕事は、世の中にたくさんある。国によって違いはあるだろうが、ここに、資本主義の論理によらない仕事、一部または全部が市場原理に従っていない事業を列挙してみよう。

 教育、医療、福祉、年金、介護、環境、宇宙開発、裁判、警察、防衛等々。このうち、裁判、警察、防衛は、がちがちの夜警国家論でも国家の仕事として認めているから、誰でも異存のないところであろう。

 新自由主義を旗印にし、「民営化」、「民営化」と騒いでも、民営化できるのは一部であって、全部ではない。民営化できないものはいっぱいある。また、「民」が転べば、「公」が援け起こさなければならない。こういうことになっているのに、全体を指して「資本主義」というのは、もはや無理というものではないだろうか。

「公」の仕事が増えれば、いきおい国民の負担を増やさなければやってゆけなくなる。したがって、国や地方公共団体は国民、住民の負担を増やそうとし、国民、住民はそうはさせまいとしてせめぎ合いが起こる。しかし、はじめから国民、住民が負担するものとして、経済、社会の仕組みをつくったら、どういうことになるだろうか。

2009年2月3日付け毎日新聞に「高福祉・高負担 スウェーデンに学ぶ点」という藤井威元駐スウェーデン大使に対するインタビュー記事が掲載されていたので、それによってスウェーデンの実例を見ておこう。

まず、消費税は現在25パーセント。税などの負担は収入の約4分の3にも上る。この増税路線が成功した理由は、「福祉サービスの権限と財源を国から地方に漸進的に移したこと。そして、地方のコミュニティーがちゃんと残っていて、市民がそのコミュニティーを大切にしようという気持ちを持っていたこと」だと言う。また、「税金が高すぎる」とは思わないのだろうか、という疑問に対しては、「『高い』とは思っていますよ。でも『それだけのことはしてもらっている』『富の再配分につながる』との意識もある」、「自信を持って言えますが、低所得者は喜んで税金を納めます。納税すれば収入以上に高価であろう各種サービスを受けられるからです。高額納税者も『高負担』には反対できません。彼らは年収が少ない時期にさんざん世話になっているのですから」とのことである。そのスウェーデン国内総生産の実質成長率は06年4・0%(日本2・7%)。96年から10カ年で、日本はマイナス成長が2回あったのに、スウェーデンは一度もない。高負担のハンディなどどこ吹く風、である。そして、スウェーデンと日本の最大の違いは、公共部門にやってもらいたいことは山ほどあるし、やらせなければならない、それが民主主義だと考えていることである。

 この記事はいろいろな意味で参考になるが、私がとりわけ興味を引かれるのは、国民の税負担が年収の約4分の3にも及ぶという部分である。ということは、収入の約4分の3がいったん「公」に入り、そこから経済循環がはじまるということである。それならば、前に見た資本主義の論理、市場原理によらない仕事、事業に潤沢に資金を投入することができるはずだ。だとすれば、このスウェーデンの経済循環システムは、資本主義だといえるのだろうか。もとより、スウェーデンにも資本主義の仕組みは残っているが、それを内包している新しい仕組み、すなわち「共存主義」ではないだろうか。

 資本主義の本来のあり方からすれば、市場で敗北したときには退場して姿を消すことになるはずである。しかし、大手金融機関や業界を代表するような大企業が経営破綻したときに、破産や整理をするのはあまりにも影響が大きくて、そのまま退場させるわけにはゆかない。例えば、大手自動車メーカーが破産したとしよう。そうなると、下請け部品メーカーや取引先が連鎖倒産を起こす。また、自社および関係の企業から何万人もの失業者が出る。不要になった大きな機械はスクラップになり、企業城下町はゴーストタウンになる。

 そこで、このような事態になることを避けるために、公的資金が投入される。 アメリカを例にとれば、まず、ブッシュ前政権が総額7000億�(約63兆円)の公的資金枠を用意し、金融機関に資本注入した。そして、2009年2月10日、オバマ政権は、官民合同で不良債権を買い取る基金を創設することを柱とする新たな金融安定化策を発表した。その額は、最大で2兆�(約180兆円)超になるという。

 さらに、同月18日には、金融危機の原因になっている住宅ローンの焦げ付き増加に歯止めをかけるために、政府が返済額を大幅に減らすことを盛り込んだ救済策を発表した。そこで投入する公的資金の総額は750億�で、支援する対象は、最大900万の住宅所有者だということである。

 そうこうしているうちに、金融大手シティグループの株価が急落し、一時1・61�まで値下がりした。これを背景にして、アメリカ政府は、政府の保有する優先株の一部を議決権のある普通株に転換し、約36%のシティ株を取得することになった。これによって、シティグループは事実上の「政府管理」に入った。

 以上は、アメリカの例であるが、ほぼ同時期に、日本では追加経済対策の財政支出規模を15兆円とする補正予算案が提出されたし、欧米各国でも金融危機に対して公的資金を投入することが決められた。

 このような動きを見ると、リーマン・ブラザーズのように市場からの退場という結末になったものもあるが、たいていの大手金融機関や大企業は、一部整理や縮小をしても何らかの方法で救済されることになるだろう。しかし、その場合には、国有化されたり、国の管理に入ることになる。例えば、公的資金を受け入れるときに新株が発行されることがあるが、これは株式会社の形を借りるだけのことで、実質は「資本」には関係のない公的資金である。

 結果論になるかもしれないが、一連の動向をトレースすると、「先取り」経済の中に、いざというときには財政出動を要請するということが予め織り込まれていかのではないかと思われてくる。なぜならば、財政出動なしに難局は乗り切れないからである。これまでも財政出動をしてきたし、これからも「先取り」が続く限り、財政出動を余儀なくされることは間違いない。

 しかし、いざとなれば財政出動公的資金の投入という後ろ盾がある体制を「資本主義」と言うのだろうか。しかも、公的資金として投入される金は、もとをただせば、国民から調達した税金か、これから調達するはずの税金を担保にしてつくる金である。これは、ある意味で不健全だが、現実に他ならない。

 この現実を素直に見れば、現在の体制はもはや「資本主義」ではなくて、すでに「共存主義」に移行していると言ってよいと思われる。

 ところで、2010年5月2日、財政危機に陥ったギリシャ政府は、約300億ユーロ(約3兆7000億円)規模となる財政再建策を閣議決定した。これを受け、欧州連合(EU)と国際通貨基金IMF)による3年間で総額1100億ユーロ(約14兆円)規模の協調融資を正式に決定することになった(同月3日付け朝日新聞)。しかし、昨日来のニュースによると、ギリシャでは、公務員の減給や人員削減、付加価値税の増額に反対する暴動が起こっているという。

 財政危機の元凶は、言うまでもなく「先取り」である。すなわち、ギリシャの事件は、「先取り」が財政危機を招き、経済だけでなく、社会を崩壊させることを、端的に示すものに他ならない。

 したがって、すでに資本主義という1つの時代が終わっていることを認識し、速やかに次の時代――共存主義――の基礎を固めるために手を打たなければならない。(廣田尚久)

※本エントリは2010/05/06にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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資本主義から共存主義へ

私は、前回までに、「資本主義は終わっている」という事実を論証した所存であるが、それでは、資本主義が終わった後にどうなるのだろうか。ささいなことでも将来を予測することは難しいのに、ことは「資本主義の後」という大きなスケールの問題であるから、その予測は簡単にできるものではない。前回述べたようなハイパー・インフレーションやら戦争やらを予測すれば、ある程度の確率で当たるであろうが、それではノストラダムスの大予言と大差のないものになってしまって、いかにも芸がない。

 いずれにせよ、悲劇的な結果を招くような事態は避けたいところであるが、そのためには、次の時代はこうありたいという願望や、こうしたらどうだろうかという提案を含めて、未来を展望する必要があると思う。

 それにしても、資本主義は終わっている!――しかし、何も驚くことではないではないか。資本主義の時代が終わったからと言って、恐れることはないではないか。

ヒトは、資本主義でなくても、立派な文明・文化を持っていた。ダ・ヴィンチの「モナリザ」も、バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」も、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」も、みんな資本主義以前の作品ではないか。資本主義の時代でなくても、ヒトは生き抜いてきた長い歴史を持っているのだ。

そこで、現状を踏まえ、将来に希望を託し、資本主義の次の時代を構想することにしたいが、次の時代に名称がなければ非常に不便である。例えば、まず次の時代の基礎を固める必要があるが、資本主義の基礎をなしているのは、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の3つの要素であるのに対して、○○時代の基礎は、「これ」と「これ」と「これ」と言うときに、○○の部分に入る言葉がないと、きちんと語ることができない。

 私は前(第3回)に、「資本主義」の次の時代の名称がないから、資本主義の時代がすでに終わっているということに気づかないのだと言い、次の時代は「共存主義」とネーミングするのがよいのではないかと述べた。そこで、これからは、次の時代を「共存主義」と言うことにして考察を続けることにするが、なぜ「共存主義」とネーミングするのかということを、次の時代を考察する前提として述べておきたい。

ネーミングするときに最も重要なポイントは、その名称が実態に合っているか否かである。つまり、「名が体を表わしているか」である。

キューバ北朝鮮を資本主義の国だとは誰も言わない。それだけでも、「資本主義」が全世界で採用されているわけでないということが分かるが、資本主義が採用されているところでも、資本主義の論理に乗らない仕事が数多くあること、破綻しても市場から退場せずに公的資金が導入されること、国民の税負担が増大していること、資本主義経済における社会の規範関係が解体の過程にあることによって、「資本主義」という名が、いまや実態と乖離していること明らかだと思う。

 私は、なんだかんだと言っても、現実に地球上に人類が生活し、さまざまな仕組みをつくって共存している事実に着目し、これからもうまく共存してゆこうではないかという願いも込めて、「共存主義」とネーミングするのがよいのではないかと思う。それは、世の中の実態をあらわしているし、また「共存」の中には、経済的意味も内包しているし、「存」には所有形態のあり方も問われるからである。

 ところで、ものごとに名称をつけるのであれば、類似の言葉を点検しておかなければならない。このごろは、さかんに「共生」という言葉が使われているので、「共生」について検討しておこう。

日本学術会議協力学術研究団体に指定された共生社会システム学会の暫定HPには、次のような設立趣意書が掲載されている。

 「いま社会は、経済をはじめすべての分野で画一的なグローバル化と格差拡大が進行し、矛盾をさらに深めつつあり、「持続可能な社会」への転換が求められています。しかし、「持続可能な社会」に導く理論的枠組みをはじめ、現状分析方法などがほとんど解明されていません。この点で注目されるキーワードが、持続可能性、多様性、コミュニケーション、地域社会、風土、農の営みと暮らし、などであり、そこに共通するキー概念が「共生」です。しかし、「共生」概念は社会の矛盾が深まるにしたがって拡散して用いられ、概念そのものが極めてあいまいになっています。いま求められることは、「共生」概念の明確化と現実社会における実質化です。そこで私達は、「持続可能性」、「コミュニケーション」などの概念や「農」の摂理を踏まえ、人文社会科学の今日の総合的視点を「共生」と定位し、そこから共生持続社会の構築に必要な問題の解明と現状分析方法の確立、問題の解決方策の定立を目指して「共生社会システム学会」(The Association for Kyosei Society;略称AKS)を設立することにしました。つまり、「人と自然」、「人と人」で成り立つ社会のあり方を「共生」という視点から体系的に把握・認識し、またその成果を実践に役立てることができる「共生社会システム学」の構築です。」

この趣意書を読むと、共通の問題意識を持っている人がいるのだと感じて、大いに意を強くする。とくに、環境問題を解くキーワードの「持続可能な社会」が使われていることに興味が惹かれる。私の場合は、そのときに経済問題と抱き合わせる方法をとるので、そのあたりのウエイトの置き方に少し違いがあるかもしれない。それはおそらく、後に言う「生」と「存」との違いだろう。

そうだとすれば、「共生経済」というキーワードで調べてみる必要があるが、内橋克人『「共生経済」が始まる〜競争原理を超えて』(NHK人間講座)には、次のように記されている。

 「いま唱えられている競争至上、市場至上の社会は、他人の失敗 がなければわが身の成功もない、そういう仕組みのなかに人びとを追い込もうとするものです。そうではなく、私たちは、自らの生をつなぐ日々の営みそのものが、即「他」においても同様の歓びの源泉であって欲しい、そう願わずにはいられないのではないでしょうか。そのようなあり方を求めてこその改革でなければならないはずです。いま、この日本列島に、分断・対立・競争を煽り、その裂け目に利益チャンスを置くという「競争セクター」一辺倒に代わって、連帯・参加・協同を原理とする「共生セクター」が力強く芽吹くようになってきました。「もうひとつの日本」をめざす新たなビジョンが次つぎ人びとを巻き込み、勢いを増す時代が始まっているのです。新たな「共生経済」の足腰をさらに鍛え、ひろく普遍的な経済の仕組みへと立ち上げる、そのような新しい日本人の誕生が相次いでいます。」

これによると、資本主義から共生主義へのパラダイム転換を構想していることは明らかであるから、私の考えていることとは共通点が多いと思われる。だとすれば、この共生主義とすり合わせをする必要があるだろうが、私は、共生主義についてまだ十分に研究をしていないので、私の論理の道筋に従って話を進めさせていただきたい。

問題は、すでに「共生主義」を提唱している研究者、評論家などがいるのに、あえて「共存主義」を唱える意味があるか否かである。断わっておくが、私は、「共生主義」に異を唱えるつもりはない。私が長年にわたって考え続けていたことを押しすすめれば、「共存主義」になるだろうということであって、それを「共生主義」と言おうというのであれば、それはそれでよい。しかし、なぜ、「共存」に行き着いたのかということは、はっきり書いておかなければならないだろう。要は、「生」と「存」の違いであるので、その相違を字義のうえから考察しよう。

私は、鉄鋼会社に勤務していた48年前に、高度成長の論理が富、価値を生み出す前に「先取り」をするということに気づき、それ以来このことを考え続け、また、ものの本に書いてきた。そして、所有の形態が変わったという認識のもとで、「資本主義は終わっている」という到達点に立った。したがって、所有形態の変更をもって時代の交替という要素は、新しい時代のネーミングに不可欠だと考えている。

そこで、藤堂明保『学研漢和大辞典』(学習研究社)を引いてみると、「存」には、「ある」、「たもつ」、「この世に生きている」、「なだめて落ち着ける」、「金品を保管してもらうために預ける」という意味がある。一方、「生」の意味は、「いきる・いかす」、「うむ・うまれる」、「はえる・おう」、「なま」、「いきていること。また、いのち」とある。比較してみると、「生」は生物的ニュアンスがあり、「存」には物質的ニュアンスがある。とくに、「ある」、「たもつ」、「金品を管理してもらうために預ける」というのは、所有の概念に隣接していて、私が展開した論理にぴったりである。

因みに、「解字」の欄を見ると、「存」は、「「在の字の左上部+子」の会意文字で、残された孤児をいたわり落ち着ける意をあらわす。もと、存問の存(いたわり問う)の意。のち、たいせつにとどめおく意となる。」とあり、あたかも「共存主義」の目標を示されたような気持になる。これに対し、「生」は、「若芽の形+土」の会意文字で、地上に若芽のはえたさまを示す。いきいきとして新しい意を含む。」とある。これもなかなかよいが、現実性ということになれば、やはり「存」の方が力強いのではないだろうか。

なお、両方に共通している「共」の「解字」は、「上部はある物の形、下部に両手でそれをささげ持つ姿を添えた会意文字。拱(両手を胸の前にそろえる)・供(両手でささげる)の原字。両手をそろえる意から、「ともに」の意を派生する。」とある。

以上により、「ともに生存する」、「互いに助けあって生存する」の意を持つ「共存」をとって、「共存主義」とネーミングしたい。

そこで次回から、「共存主義」の内容について考察を進めることにしよう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/28にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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漂流する「資本主義」

 資本主義の基礎である「私的所有」、「法的主体性」、「契約」が壊れていて、すでに「資本主義は終わっている」という状態になっていることは、前回に述べたとおりであるが、それでも、漂流する資本主義を沈没させまいとする試みは、いろいろ行われている。そのために、人々は資本主義が終焉していることに気づかないのだと思うが、まずはその試みを見ておこう。

例えば、「私的所有」が壊れていることは前回に見たとおりであるが、壊れた部分に公的資金を投入することによって、漂流船を修繕する試みがなされている。これは、「私的所有」を「公的所有」に置き換えることによって、基礎を補強する工事だと言ってもよいだろう。

 公的資金を投入するパターンはいろいろあるが、その1つは、一定の機関を通して投資をする方法がある。例えば、日本航空会社更生法の適用を申請した際には、企業再生支援機構が3000億円以上の増資を引き受けることが事業再生計画案の骨子に入っているが(2010年1月20日付け朝日新聞)、企業再生支援機構は事業の再生を支援する官民出資の企業であり、ここを通じて多額の公的資金が投入されることになる。一方、日本航空のこれまでの株式や社債はほとんど無価値になり、株主や社債の持ち主は、アッと言う間に「所有権」を失った。こうして、日本航空の「私的所有」の多くの部分が「公的所有」に置き換わったのである。これは1つの例に過ぎないが、こうして公的資金を受け入れた企業の所有権の一部または全部は、実質上公的資金に占められることになる。

 もともと資本主義の原則からすれば、事業に失敗すれば市場から退場するのが筋である。しかし、日本航空ほど規模が大きくなると、経済的、社会的影響が大き過ぎて、市場から退場させることはできない。このようにして、公的資金を投入する方法で修理し、積荷を海に捨て――具体的には、不採算路線を廃止したり、人員削減をしたりしながら――救助船が来るのを待つのである。

 これについては、資本主義と社会主義の混合経済という考えに立って、基礎が「私的所有」と「公的所有」が混在してもよいのだという反論が起こるかも知れない。しかし、混合経済という考えそのものに問題があることは、前(第9回)に述べたとおりである。また、そもそも資本主義の基礎となっている「私的所有」の一部が「公的所有」に置き換わること自体が、資本主義の終焉を告げていると言うことになるのではないだろうか。

  そのことはさて措くとしても、「公的所有」の元を辿れば国債発行等の「先取り」によって調達した財源であり、それは中身のない空っぽの価値、すなわち、「虚の価値」であるから、結局のところ基礎のあちこちにジャンカ(空洞)が発生していると言わなければならない。したがって、「私的所有」の一部を「公的所有」に置き換えても、資本主義の基礎は修復ができないほど壊れていると言えよう。すなわち、漂流する「資本主義」を沈没させまいとする試みは、きわめて頼りないものであると言わざるを得ない。

 なお、中身のない空っぽの価値――私の言う「虚の価値」――を作り出す方法は、国債だけではない。その方法については、吉本佳生著『デリバティブ汚染――金融詐術の暴走』(講談社)に詳しいので是非お読みいただきたいが、そこで作られた「虚の価値」は金融派生商品デリバティブ)という形になって、あちこちの地方自治体、大学、年金基金等に売り込まれ、基本財産とデリバティブが入れ替わっていることがよく分かる。すなわち、そこでは基本財産がすでに空洞になっているのである。

 さらに、2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済計算確報によると、金融機関は66兆9524億円、民間非金融法人企業は2兆1023億円、家計(個人企業を含む)は4475億円の金融派生商品デリバティブ)を保有している。これは、「先取り」されたものであるから、あらかた「虚の価値」と言ってよいものである。

 これらのデリバティブという姿の莫大な「先取り」された「虚の価値」が作った空洞を、将来実の価値によって埋められる保証は、どこにもないのである。このことも、『デリバティブ汚染――金融詐術の暴走』に指摘されている。

 やっかいなことに、経済がグローバル化しているために、「先取り」もグローバル化している。サブプライムローンによって先取りされた中身のない空っぽの価値=「虚の価値」は、どんどん肥大化して、世界中のあちこちに潜り込み、実体経済にも影響を及ぼし、世界中に失業者を溢れさせているのである。

 このように、今や資本主義は、国債デリバティブなどの「先取り」された虚の価値を満載して、荒海の中を漂流していると言ってもよいだろう。ただし、現在の段階で高度成長を謳歌している中国、インド、ブラジルなどを念頭に置いて、資本主義が漂流していると見るのは早計だと考える人もいるだろう。しかし私は、非常に高い確率で、これらの諸国も、欧米や日本と同じ道を辿ると思っている。要は時間の問題であって、やがて漂流がはじまるだろう。

 それでもなお、漂流する「資本主義」を沈没させまいとする試みはいろいろ行われるだろう。しかし、結局は打つ手がなくなって、放っておかざるを得なくなるかもしれない。では、放っておかれたら、どうなるのだろうか?

 目に浮かぶのは、荒涼たるゴーストタウンである。マイケル・ムーア監督の映画『キャピタリズム マネーは踊る』には、広大なGMの工場跡地が出てくるが、あの姿である。そして、経済現象としては、何が起こるのだろうか。

 まず考えられることは、貨幣価値の下落という結果である。貨幣価値が下がれば、国債を代表とするもろもろの借金は、相対的に下落した分だけ帳消しになる。すなわち、先取りした「虚の価値」は萎んで小さくなり、その分だけ楽になるのである。しかし、デフレ・スパイラルが懸念されている昨今の経済情勢では、貨幣価値の下落を期待するのは無理だろう。

 それでも、タイムスパンを長くとれば、貨幣価値の下落は、必ず起こる現象である。したがって、気長に時間を稼いでいれば、漂流する資本主義も、いつかは安全な港に辿りつくかもしれない。しかし、その長い間に、国は国債の増発を続け、企業は借金を増やし続けるだろう。だから、とても長い時間をかけるわけにはゆかないのではないだろうか。973兆円にも及ぶ国債などの国の借金だけをとってみた場合、仮に長いタイムスパンをとって貨幣価値の下落があったとしても、通常の方法では、とうてい消すことはできないと思う。

 だとすれば、通常の方法でない、もっと過激な方法で、貨幣価値を下落させることが起こる可能性が高い。この過激な方法による貨幣価値の下落という現象は、人類は何度も経験している。具体的に言えば、ハイパー・インフレーションである。前に述べたように、第一次世界大戦の後のドイツ、第二次世界大戦後の日本、最近のジンバブエ

 なお、貨幣価値の下落には、戦争が一役買っていることを見逃すわけにはゆかない。すなわち、資本主義は、矛盾の解決手段として戦争を抱えているのである。これは歴史が証明していることであって、これまでは多分にそうであった。そして、これからはそうでないという保証はない。こうしてみると、資本主義の仕組みの中に戦争が内蔵されていると言ってもよいが、これは本稿の主題と少しずれるので、先に進もう。

 貨幣価値の下落でないとすれば、古典的な方策に見えるが、徳政令はどうであろうか。つまり、シラーが「歓喜の頌歌」に書いた「われらの債権簿を破棄せよ」である。ベートーヴェンは、交響曲第9番でこの部分に曲を付けていないが、シラーは、全世界が和解するためには、「債券簿の破棄」が必要だと考えていたようである。私は、詩人の感受性と洞察力を多としたいが、それにしても、そのあとどうなるのか、大いに心配である。すなわち、これを実施すれば、その瞬間に「先取り」された虚の価値は消えるが、虚の価値といえども、そこには債権者が実在する。したがって、徳政令が実施されれば債権者は大損することになるので、経済、社会の混乱は必定である。

 では、徳政令の方向はないということになるのだろうか。そうではなく、漂流する資本主義を部分的に修繕する方法として、ときどき採用されているのである。例えば、オバマ大統領は、2009年2月18日、金融危機の原因になっている住宅ローンの焦げ付き急増に歯止めをかけるため、政府が補助金を出す救済策を発表した。その総額は7兆円で、最大900万の住宅所有者を支援するということについては、前に述べたとおりであるが、その方法として、住宅ローン会社や銀行などの貸し手が金利を下げて月収のローン返済比率を38パーセントまで軽減し、残りの負担は貸し手の金利減免と政府補助金で折半する仕組みだという。

  また、わが国において記憶に新しいところでは、2009年11月30日に成立した「中小企業等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律」(いわゆる「中小企業金融円滑化法」)である。これは江戸時代の徳政令と比較すれば不徹底なものであるから、これを徳政令であると言い切ることはできないが、金融機関に返済猶予を促すものであるから、少なくとも徳政令の思想を汲み取った施策であると言うことはできるだろう。

 その他にもう1つあるとすれば、財政出動をし続けることである。これは、漂流する資本主義の破損個所を修繕するための応急処置としてやむを得ないことかもしれないが、中身のない空っぽの価値、すなわち、「虚の価値」は膨らむばかりになる。したがって、そんな方法がいつまでも続くわけはない。

 現在のところ、貨幣価値を下げる方向、徳政令の方向、財政出動の方向の3つの方向からの力学が働き、とくに徳政令の方向、財政出動の方向の複合形態が模索されているが、いずれ、貨幣価値を下げる方向へ向かわざるを得ないのではないかと思われる。

  私は以前、時代が移行するときには、所有形態の変更があり、それこそがメルクマールであると述べた。ここで述べたことは、現在のところ革命のような目の覚める変化ではないが、所有権の絶対性というドグマから見れば、すでに所有形態に大幅な変更があり、その結果、「資本主義は終わっている」という状態になってしまったと言ってよいのではないだろうか。

 ところで、これまで、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」を資本主義の基礎をなしている3つの要素であると述べてきた。では、資本主義でない体制になると、この3つの要素はどのようになるのであろうか。

 広い意味の社会主義にはさまざまなバリエーションがあり、社会主義もどきの全体主義などというものがあるので、その全部について検討することはできないが、最も極端な共産主義について、大雑把に見ておこう。

 共産主義の経済体制のもとでは、まず「私的所有」は否定され、生産手段の社会的所有という形態になる。そして、「法的主体性」は大幅に制約され、個々人が自由な意思に基づいて「契約」するのではなく、一定の計画によって規制される。また、法的主体性のある労働者が自己の労働力を売るのではなくて、能力に応じて労働し、配分を受ける。しかし、現実には、その社会を運営、維持するために、厖大な官僚機構がつくられ、往々にして独裁政治が行われる。

 このように図式的に書くと、あらかたの人は、いくら資本主義がおかしくなっても、共産主義になるよりもましだと思うであろう。しかし、漂流する資本主義にいつまでも拘泥していてよいのであろうか。前に述べたように、あれこれ修繕をしても、もう持たないのではないのではないだろうか。まして、放っておいたらなおさら危ない。早く手を打つに越したことはないはずである。

 そうだとしたら、発想をガラリと変えて、資本主義とは別の時代の基礎を築いたらどうだろうか。もとより、共産主義とも違う別のものの。

 前(第3回)にも述べたように、「資本主義では器が小さすぎる」のである。すなわち、「近代」がスタートしたときには、その基礎が「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という3つの要素でもよかったのだが、それから200年以上を経た今日では、基礎が脆弱過ぎてもたなくなってしまったのである。

 私が言いたいのは、漂流する「資本主義」に拘泥せずに、「資本主義は終わっている」ものとし、経済、社会の規範関係をすっかり別のものに変えることによって、新たな時代を構築すべきであるということである。

 マルクスによる定義から離れて、「資本主義」という言葉は、今や、物質か精神か、資本か労働か、持てる者か持たざる者かと分けたとき、いずれも前者にスポットライトを当てて組み立てられた概念となってしまっている。しかし錯綜する現代では、後者を無視して世の中を組み立てることができない時代になっているのだ。精神、労働、持たざる者を眼中に入れずに、経済を循環させることはできない時代――これが私たちの生きている時代なのだ。

 だとしたら、次のステップに踏み出す必要があるのではないだろうか。つまり、物質も精神も、資本も労働も、持てる者も持たざる者も、その他もろもろの事象を包摂する「器」を発見し、また、創造することを目指さなければならないのではないかと思う。

 ここまでで、一応「資本主義は終わっている」を論証したので、これからは、次のステップについて、若干の考察をしておきたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/21にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「先取り」による資本主義の終焉

私は前(第8回)に、「先取り」――すなわち、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうこと、先取りした段階では中身のない空っぽの価値――が、私的所有、契約、法的主体性という資本主義の基礎を毀してしまったことによって、「資本主義は終わっている」ことを論証しようと考えていると述べた。

 今回は、「先取り」が資本主義の基礎を毀してしまって、すでに終焉していることを明らかにしたい。そこでまず、資本主義の基礎を見ておこう。

  これも前(第8回)に述べたことだが、資本主義経済における社会の規範関係は、私的所有(富=商品に対する排他的な完全な支配の相互承認)、契約(商品に対する排他的支配の相互承認という前提の下では、商品の交換は、交換当事者双方の合意なくしては存在し得ない。この合意が契約である)、法的主体性(商品交換においては、交換当事者は、私的所有及び契約をとおして、相互の独立主体性――すなわち法的主体性――を承認しあっている)の3つの要素が基礎となっている(川島武宜民法総則』有斐閣・2頁〜4頁)。

 つまり、封建時代が終わって近代に入り資本主義の時代になったメルクマールは、個々の人間が領主の支配から脱して主体性を持った自由な個人になったこと、同時に土地をはじめ私有財産を持つことを禁じられていた支配を排除して私的所有が認められるようになったこと、独立した個人が生産した商品(私有財産)を対象にした契約によって取引することができるようになったこと、以上の3つである。

仮に私有財産を持っていなくても、法的主体性を持った各個人は、自分の労働力を売ることによって、富と交換することができる。これが資本主義の基本的な仕組みであって、私的所有、契約、法的主体性は、資本主義の基礎をなす3つの要素だと言われている。したがって、この3つの要素が揺るがずに維持されている限り、「資本主義」は終わっていないが、これが維持できなくなると基礎が崩壊し、「資本主義は終わっている」と言ってよい状態になる。

 そこで、この3つの要素が揺るがずに維持されているかどうか、そのことによって、まだ「資本主義」の時代だと言えるか否かを、考察しておきたい。

 なお、川島教授の定義は、商品取引に特化しているような印象があるが、この3つの要素は、資本主義社会に共通する基礎であり、今まさにその資本主義が終わっているか否かをテーマにしているのであるから、商品取引に囚われないで論じたい。ただし、3つの要素と言っても、これは理念形態であるから、多少の揺るぎは大目に見ることにしよう。問題は、それを維持しきれなくなっているか否かである。

 まず、国債が私的所有をどの程度侵食したかを見ておこう。


 2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済確報によると、個人と民間企業と民間非営利団体が所有する正味資産は、2717兆6230億円である。

これに対し、2010年度の予算によると、2010年度末の国債と借入金、政府短期証券を合わせた債務残高の総額は973兆円になる。時点のずれはあるが、個人と民間企業と民間非営利団体が所有する正味財産はここ数年間減少の傾向にあるので、2008年末の数値を使っても大きな違いはないだろう。

そうすると、マクロ的にみれば、民間が所有する正味資産の約3分の1に匹敵する国の借金があるということである。一方、2010年度予算に計上された税収が37兆3960億円であるから、その数字で国の借金の長期債務973兆円を割ると、約26という答が出る。すなわち、この国の借金を税収で返すのであれば、26年間かかるのである。

この26年間という数字は、税収をすべて国の債務の償還に充てた場合の話である。すなわち、この間は、福祉にも、教育にも、公共事業にも、司法にも1円も使わずに、ただひたすら借金の弁済をしなければならない。国の債務には利息がついているから、その分26年間はさらに先に延びる。家計に譬えれば、食うものも食わず、着るものも着ずに、ただひたすら借金だけを返すことを意味する。果たして、そんなことができるのだろうか。つまり、税収で国の借金を返すことは、もはやできない段階にきているのである。

2010年度予算は、もう1つ大きな特徴がある。それは、税収が37兆3960億円であるのに対し、公債金が44兆3030億円であることだ。つまり、税収が公債発行額を下回ることだが、それは昭和21年度(1946年度)以来の出来事である。1946年度予算と言えば、第二次世界大戦が終わった直後に組み立てたものであるが、要するに戦争に負けて焼け野原になり、経済、社会が大混乱に陥っている状態のときのことである。その頃のことが記憶に残っている人は70歳以上の年齢に達しているが、私には、当時の焼け野原の光景と現在の経済、社会の風景とが二重写しになって見える。

こうしてみると、通常の方法では、税収で国の債務を返すことはできないと言わざるを得ない。もはや、税収で国の債務を返すことができると思っている人はいないであろう。政治家の中でも、それが可能であると考えている人は、おそらく1人もいないと思われる。それは何も非難に値することではない。幻想は持たない方がよいのである。

では、通常でない方法で国の債務を払うことはできるのだろうか。

昔から徳政令というものがあった。それは要するに借金の棒引きであって、こういうときに使われる手段である。つまり、国の債務を全部棒引きにすれば一気にそれが消えてしまうので、国にとっては極めて都合のよい方法。そんなことをすれば経済が大混乱するので、わが国の政府が徳政令を発布することはあり得ないが、私がここで言いたいことは、国民が所有している資産は、すでに国の借金の型(担保)に入っているということである。すなわち、先ほど見たように、私的所有のうちの3分の1は、国債その他の国の債務、すなわち、「先取り」によって侵食されているのである。

したがって、徳政令が発布されなくても、何らかの方法で、いつの日にか、国民の資産は国によって巻き上げられることになるだろう。なぜならば、すでに私的所有は「先取り」され、今の時点で3分の1はなくなっているのであるから。あとは、それを現実に実行されるだけのことである。私の「先取り」の仮説を思い出していただきたいが、ここに「生み出される前に先取りされた虚の価値が、後にいかにして実の価値として埋めつくされる」という「本質的矛盾」が強烈なエネルギーをもって露呈されるのである。

 では、具体的に、どのような方法で実行されるのであろうか。

 その中には、意識的に行われるものや、成り行きで行われるものや、別の目的で行われたことが結果として実行されたことになるものなど、さまざまな方法がある。

 意識的に行われるものの代表は「増税」であるが、景気の一層の悪化や選挙を意識して消費税のアップを決められない一例だけを見ても、近い将来に実現する可能性は薄い。まして、国の債務残高の総額が973兆円という規模になれば、少々の増税では追いつかないだろう。それはともかくとして、ある程度の時間が過ぎれば増税は実行されるだろうが、それが行われれば、国民の資産はそれに見合う分だけ減少することになるから、虚の価値が実の価値として埋めつくされるという意味での実行がなされることになる。

 ここで、「先取り」された虚の価値が、他人の所有権に潜り込んで、その中身を取ってしま例を挙げておこう。これは、空っぽの中身のない価値、すなわち私の言葉によると「虚の価値」が実の価値として埋められるもう1つの方法であると言い換えることができる。

 住宅ローンを組めば担保権が設定されるので、所有権は借り手にあっても、経済的に見ると、中身の価値はローン金額を差し引いたものになる。しかし、当事者間のやり取りとは別に、「先取り」が大々的に行なわれると、一時的に不動産の価格が暴騰する。そして、それに伴って、相続税や譲渡所得税が吊り上る。すなわち、「先取り」された虚の価値が他人の土地に潜り込んで、相続税や譲渡取得税として忍び込み、その分だけ所有権を侵食するのである。

 例えば、以前の地価暴騰のときのことであるが、1993年2月15日付け朝日新聞夕刊には、高級住宅地の代名詞にもなっている東京・田園調布で、初老の夫婦が地価高騰で跳ね上がった自宅の土地の相続税の重圧に耐えかね、自殺していたことが報道されている。このように、国債の発行などで「先取り」された価値が、地価を跳ね上げることによってその中に潜り込み、税金として吸い上げられる仕組みになっていたのである。すなわち、自分のものだと思っていたものが、実は自分のものではなくなっていたのだ。

 これは一例であるが、国債などの国の債務残高が973兆円にもなっていると、自分が所有しているものの中に、「先取り」による虚の価値が相当潜り込んでいて、相続や売買などの機会に現実に所有権を奪われてしまうのである。

 以上によって、資本主義の基礎をなしている3つの要素のうちの「私的所有」の相当の部分がすでに壊れていることが明らかになった。ここで、「相当の部分」と言ったが、国民の資産と国債発行残高の割合だけをとっても、3分の1になっていることはすでに述べたとおりである。その他にも、「先取り」に侵食されているところがあるから、それ以上に空洞になっているはずである。基礎というものは、3分の1以上も空洞になれば、その上に載っている建物は倒壊を避けることができない。上に載っているものが大きければ大きいほど倒壊の危険性は大きく、また、その影響が甚大になる。

 これまで資本主義の基礎をなしている3つの要素のうちの「私的所有」について述べてきたが、残りの2つの要素、すなわち、「法的主体性」と「契約」についても、ざっと見ておこう。

 これまでに述べたように、「先取り」は金融崩壊、経済危機もたらした。これによって精神病が増え「法的主体性」が危うくなっている現実がある。しかし、何と言っても大きな問題は、資本主義は労働力を売って食べてゆくことが前提になるのに、その前提が崩れていることである。具体的には派遣労働者の問題など、現在の日本で起こっている問題をあげれば枚挙に暇がないが、失業者が増加し、労働力を売りたくても売ることができない状況になったとき、すなわち、自分で食べてゆけなくなったときには、法的主体性も何もあったものではないではないか。すなわち、「私的所有」が「先取り」に侵食された結果、その影響で「法的主体性」も崩壊しつつあるのである。

 「契約」については、契約の危機という言葉が、以前から流布されていた。すなわち、今日の社会は、当事者の意思決定に介入して、さまざまな局面で契約への公的介入を要請し、また許容しており、多くの規制が加えられてきた。それに伴い、伝統的な契約法は、大きな変貌を迫られるようになった。これは、今日の社会が共通に抱えている現実であるが、経済危機が叫ばれるようになると、いっそうの現実性を帯びてくる。

 例えば、破綻した企業に公的資金を注入するとき、受け入れる側は、意思決定に制約を受けるだろう。また、農林漁業に対して財政援助をする必要が生じたときには、土地の利用方法などにおいて特殊な契約をすることがあるのではないだろうか。こうしてみると、「契約」の要素も、単なる揺らぎにはとどまらず、修復のできない段階に入っていると思われる。

 以上により、資本主義の基礎である3つの要素、すなわち、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の相当部分が壊れていることが明らかになった。ここまで基礎が壊れれば、その上に乗っている建物、すなわち資本主義の表層がどんなに立派に見えても、すでに「終わっている」と言ってもよいのではないだろうか。ヴェルサイユ宮殿がいかに堂々と立っていても――現在でもパリの西南に行けばその美しい姿を見ることができる――「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という基礎の上に「近代」が築かれた時点で、すでに近世は「終わっている」のである。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/14にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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貨幣と「先取り」される虚の価値との交換について

 今回は、「先取り」に関する最も基本的な問題を、理論的に考察することにしたい。

 中身が空っぽの価値を埋め込んだ金融商品は世の中にたくさん出回っているが、ここでは、前(第15回)に説明した「アメリカの債務担保証券(CDO=コラテライズド・デット・オブリゲーション、以下「CDO」という)」を例にとって説明しよう。なお、金融商品の中に入っている中身のない空っぽの価値を、便宜上以下に、「虚の価値」ということにしたい。

 証券化されたCDOの中には、サブクライムローンが埋め込まれているのであるから、そこには、先取りされた虚の価値が入っている。また、サブプライムローンと一緒に混ぜこぜにされたものの中には、社債が入っているものもあるだろう。社債は発行した会社の借金であるから、同じように中身がない。つまり、発行の時点では、中身のない虚の価値である。ただし、観念的には発行した会社の総資産が担保になっているであろうが、担保を実行することになれば社債の価値は激減するのが普通だから、担保の存否はこの際無視してよいと思う。社債の他にも、CDOには、いろいろなものが混ざっているだろうが、その大半は、虚の価値だと言ってよいだろう。

 さて、証券となったCDOは、金融商品として市場に提供される。そして、貨幣と交換される。この貨幣との交換は、「CDOの売買をする」という言葉で表現される。しかし、この売買には、際立った特徴がある。例えば洋服の売買と異なって、対象が物理的に存在する「物」ではないことである。すなわち、交換される貨幣の相手が「物」ではなく、単なる価値、しかも中身のない虚の価値であるという特徴がある。そしてまた、洋服ならば1回の取引で完結し、その後洋服が商品として市場に出てくることはない(中古販売という例外はあるが、頻度が極めて少ないので無視する)。これに対して、証券化されて市場に出た金融商品は、償還されるか、デフォルト(債務不履行)によって消滅しない限り、市場において取引の対象になる。しかも、虚の価値のままで。しかし、金融商品の多くについては、一定の時期がくる度に利息や配当が支払われるから、中身が虚の価値であることは、気づかれない。

 ところで、証券化されたCDOは、市場で貨幣と交換されるので売買と意識されているが、もとをただせばサブプライムローン社債などであるから、その実体は「金の貸し借り」、すなわち、金銭消費貸借である。したがって、CDOなどの金融商品は、「信用」と同一の運命を持っている。ここで「信用」とは、給付と反対給付との間に時間的なずれのある交換という意味である。

 この「時間的なずれ」を巡って、「金の貸し借り」には3つのパターンがある。「金の貸し借り」は、大昔からあったものであるが、金融商品と貨幣との交換に姿を変えても、その基本は変わらない。では、その3つのパターンを見てみよう。

 1つの極には、約束した通りに借りた金を返すというパターンがある。この場合は、貨幣と交換された信用は、はじめは中身がなくても、確実に履行される、すなわち履行によって中身は埋まるのだから、「健全パターン」と言ってよいだろう。このときには、物的・人的担保や成功が見込まれる事業によって担保されることが多いであろう。『ヴェニスの商人』のように船が沈没するようなリスクもあるが、それは例外としよう。いずれにせよ、世の中の「金の貸し借り」が、健全パターンばかりであったならば、経済が混乱することはない。

 もう1つの極には、はじめから返す気持ちがないにもかかわらず、金を借りるというパターンである。これは端的に言えば詐欺である。ありもしないことをあたかも実在するように装って、資金をかき集めることも、この詐欺の類型に属する。東南アジアのえび養殖とか円天マネーなど、その例はたくさんあるが、これが詐欺の一種であることは、誰でも分かるであろう。これを「詐欺パターン」と言うことにしよう。

 以上の2つの両極端のパターンの間に、「中間パターン」と言うべきものがある。この中間パターンは実に幅が広い。一部は返せるが全部は返せないもの、何回かの利子は払うが元本は返せないもの、はじめは返す気持ちがあっても後に返すことができなくなるもの、うすうす返せないかもしれないと思っていたがやっぱり返せなくなるもの、返すのは難しいが運がよければ返すことができるだろうと思っているもの等々。これらが「健全パターン」でないことは確かだとしても、「詐欺パターン」だと言い切ることは難しいだろう。まして「詐欺パターン」にどの程度近いかということは測り難い。

 しかし、「中間パターン」であっても、デフォルト(債務不履行)ということになれば、出した金が戻ってこないという点、すなわち結果は「詐欺パターン」と同じになる。日本航空が発行した社債の価値がほとんどなくなった例を見れば、誰でもすぐに分かることである。

 では、CDOはどのパターンのどの辺の位置にあるのだろうか。また、他のもろもろの金融商品は、どの位置にあるのだろうか。

 吉本佳生著『デリバティブ汚染―― 金融詐術の暴走』(講談社)は「詐欺」という言葉を使って、深刻なデリバティブ金融派生商品)による汚染の危険性に警鐘を鳴らしているが、この本の中に、PRDC債(パワーリバースディアルカレンシー債)という仕組債の例として、1年目の金利は5%、2年目以降の金利は米ドルやユーロや豪ドルに対する円相場に応じて変動し、発行から30年後に満期償還、ただし年1回の利払日に1豪ドル98円以上の円安ならその時点で早期償還というものが挙げられている(同書38頁〜41頁)。このような金融商品は、「中間パターン」の中でも、どの辺に位置しているのであろうか。複雑すぎて目がくらむほどである。

 いずれにせよ、さまざまなデリバティブなどを混ぜこぜにして、あたかも「健全パターン」あるいは「中間パターン」のように装いながら、限りなく「詐欺パターン」に近い金融商品が、世の中にはたくさん出回っているのではないかと思われる。金融商品に格付けが行われたり、市場で大々的に売りさばいたりする装置があること自体、どうも怪しいと思うのは、私だけでないようだ。

 この3つのパターンを頭の片隅に置いたまま、考察を前に進めよう。

 ここでもう1つ考察しておきたいことは、いったい「貨幣」とは何かということである。

 岩井克人教授によれば、「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである。すなわち、貨幣が貨幣としての役割をはたすためには、それに対する社会的な労働の投入や主観的な欲望のひろがりといった実体的な根拠はなにも必要としていない。」(『貨幣論筑摩書房・64頁)

 「貨幣とは何か」ということに対しては、古くから貨幣商品説、貨幣法制説などの論争があったようだが、私にとっては、岩井教授の説が腑に落ちる。

 私は幼少のとき、昔は貝殻がお金であったと絵本に書いてあったのを読んで、どうにも信じられなかった。貝殻ならば海岸に行って拾ってくればよいはずなのに、なぜそんなものがお金になるのだろうかと疑問に思い、長い間ひとりで考え続けていた。中学生になった頃には、長い時間をかけて探し当てたものと、短い時間で見つかったものとが同じ貝殻だったとしても、それは同じ値打ちの貨幣になるはずだが、それでよいのか、と疑問はふくらんだ。それらの疑問は長い間解けなかったが、高校生のときにふと、皆が貝殻を貨幣として扱うのならば、貝殻が貨幣であってもよいのだ、貨幣として受け取った人がまた貨幣として使うのであれば、それでよいのだと納得したような気持ちになった。

 幼少のときからの疑問を書いた理由は他でもない。仮に現在の貨幣が精巧な装置と壮大な組織によって操られているものだとしても、それは貝殻と同じものに過ぎないということである。すなわち、それは貝殻と同じ危うさのうえに成り立っていることである。では、――

 貨幣として扱われて人の手から手に渡されるものを貨幣というのであれば、貨幣と交換されたCDOなどの証券化された金融商品はいったい何なのであろうか。

 貨幣は、そのもの自体に値打ちがない。すなわち貨幣は、安物の鋳貨か、薄っぺらの紙でできた紙幣か、電磁気的に書き込まれたエレクトロニック・マネーに過ぎない。その点では、金融商品も同じである。金融商品には利子や配当がつくのが多いので若干の違いはあるが、金融商品金融商品として扱われ、人から人へと転々と流通する限りは、金融商品である。この最も本質的なところは、貨幣とそっくりである。このことは、洋服などの物質的な質量を持つ商品と金融商品との違いを考えてみればすぐに分かることである。

 そこで、次に金融商品の動きを見てみよう。これから先は、「デリバティブ」(=金融派生商品)ということにする。

 前(第15回)に述べたように、レバレッジという作用を使って、市場では10分の1の保証金で10倍のデリバティブを購入することができる。すなわち、取引の当初の段階では、10分の1の貨幣で10倍にふくらんだデリバティブが市場から流通のプロセスに出てゆくのである。

 ところで、CDOは、もとはといえばサブプライムローン社債などの虚の価値だった。その先取りされただけで中身のない虚の価値が、貨幣と同様に、電磁的に刻印さえすれば、あたかも価値があるように大量に世の中に出回る。そして、あちこちにばらまかれ、まず貨幣と入れ替わり、さらに潜入して所有権の中身と入れ替わり、人や企業が所有しているものを空洞にしてしまうのである。

 ここで注意を要するのは、デリバティブは、貨幣が崩壊するより早く崩壊の日を迎えるということである。サブプライムローンの例で分かるように、デリバティブは中身がなく、大きな空洞を抱えている。したがって、その空洞を埋めることができないことが明らかになったり、その他のきっかけがあったりすれば、デリバティブは貨幣より容易に崩壊する。そして、デリバティブは、それ自体は貨幣と同様に無価値なものであるから、崩壊するときは、単なる金属片、紙切れ、電磁気的に書き込まれた情報コードになってしまい、無価値な屑になってしまう。しかも、貨幣はすでにあちこちでデリバティブに入れ替わっているのであるから、貨幣が貨幣でなくなっていなくても、デリバティブが蔓延している現時点で、すでに危険な状態になっていると言わなければならない。

 では、わが国には、どの程度の量のデリバティブが存在しているのだろうか。2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済計算確報によると、金融機関が保有している金融派生商品デリバティブと同義であるが、国民経済計算確報では「金融派生商品」となっている)は66兆9524億円、民間非金融法人企業が保有している金融派生商品は2兆1023億円、家計(個人企業を含む)が保有している金融派生商品は4475億円である。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだろうが、2006年末では金融機関が20兆3516億円、民間非金融法人企業が1兆5856億円、家計が1375億円、2007年末では金融機関が28兆799億円、民間非金融法人企業が1兆5607億円、家計が2199億円であったことと比較すると、2008年に至って急増していることは明白であり、すでに危険水域に入っていると言ってよいだろう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/07にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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