資本主義から共存主義へ

私は、前回までに、「資本主義は終わっている」という事実を論証した所存であるが、それでは、資本主義が終わった後にどうなるのだろうか。ささいなことでも将来を予測することは難しいのに、ことは「資本主義の後」という大きなスケールの問題であるから、その予測は簡単にできるものではない。前回述べたようなハイパー・インフレーションやら戦争やらを予測すれば、ある程度の確率で当たるであろうが、それではノストラダムスの大予言と大差のないものになってしまって、いかにも芸がない。

 いずれにせよ、悲劇的な結果を招くような事態は避けたいところであるが、そのためには、次の時代はこうありたいという願望や、こうしたらどうだろうかという提案を含めて、未来を展望する必要があると思う。

 それにしても、資本主義は終わっている!――しかし、何も驚くことではないではないか。資本主義の時代が終わったからと言って、恐れることはないではないか。

ヒトは、資本主義でなくても、立派な文明・文化を持っていた。ダ・ヴィンチの「モナリザ」も、バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」も、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」も、みんな資本主義以前の作品ではないか。資本主義の時代でなくても、ヒトは生き抜いてきた長い歴史を持っているのだ。

そこで、現状を踏まえ、将来に希望を託し、資本主義の次の時代を構想することにしたいが、次の時代に名称がなければ非常に不便である。例えば、まず次の時代の基礎を固める必要があるが、資本主義の基礎をなしているのは、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の3つの要素であるのに対して、○○時代の基礎は、「これ」と「これ」と「これ」と言うときに、○○の部分に入る言葉がないと、きちんと語ることができない。

 私は前(第3回)に、「資本主義」の次の時代の名称がないから、資本主義の時代がすでに終わっているということに気づかないのだと言い、次の時代は「共存主義」とネーミングするのがよいのではないかと述べた。そこで、これからは、次の時代を「共存主義」と言うことにして考察を続けることにするが、なぜ「共存主義」とネーミングするのかということを、次の時代を考察する前提として述べておきたい。

ネーミングするときに最も重要なポイントは、その名称が実態に合っているか否かである。つまり、「名が体を表わしているか」である。

キューバ北朝鮮を資本主義の国だとは誰も言わない。それだけでも、「資本主義」が全世界で採用されているわけでないということが分かるが、資本主義が採用されているところでも、資本主義の論理に乗らない仕事が数多くあること、破綻しても市場から退場せずに公的資金が導入されること、国民の税負担が増大していること、資本主義経済における社会の規範関係が解体の過程にあることによって、「資本主義」という名が、いまや実態と乖離していること明らかだと思う。

 私は、なんだかんだと言っても、現実に地球上に人類が生活し、さまざまな仕組みをつくって共存している事実に着目し、これからもうまく共存してゆこうではないかという願いも込めて、「共存主義」とネーミングするのがよいのではないかと思う。それは、世の中の実態をあらわしているし、また「共存」の中には、経済的意味も内包しているし、「存」には所有形態のあり方も問われるからである。

 ところで、ものごとに名称をつけるのであれば、類似の言葉を点検しておかなければならない。このごろは、さかんに「共生」という言葉が使われているので、「共生」について検討しておこう。

日本学術会議協力学術研究団体に指定された共生社会システム学会の暫定HPには、次のような設立趣意書が掲載されている。

 「いま社会は、経済をはじめすべての分野で画一的なグローバル化と格差拡大が進行し、矛盾をさらに深めつつあり、「持続可能な社会」への転換が求められています。しかし、「持続可能な社会」に導く理論的枠組みをはじめ、現状分析方法などがほとんど解明されていません。この点で注目されるキーワードが、持続可能性、多様性、コミュニケーション、地域社会、風土、農の営みと暮らし、などであり、そこに共通するキー概念が「共生」です。しかし、「共生」概念は社会の矛盾が深まるにしたがって拡散して用いられ、概念そのものが極めてあいまいになっています。いま求められることは、「共生」概念の明確化と現実社会における実質化です。そこで私達は、「持続可能性」、「コミュニケーション」などの概念や「農」の摂理を踏まえ、人文社会科学の今日の総合的視点を「共生」と定位し、そこから共生持続社会の構築に必要な問題の解明と現状分析方法の確立、問題の解決方策の定立を目指して「共生社会システム学会」(The Association for Kyosei Society;略称AKS)を設立することにしました。つまり、「人と自然」、「人と人」で成り立つ社会のあり方を「共生」という視点から体系的に把握・認識し、またその成果を実践に役立てることができる「共生社会システム学」の構築です。」

この趣意書を読むと、共通の問題意識を持っている人がいるのだと感じて、大いに意を強くする。とくに、環境問題を解くキーワードの「持続可能な社会」が使われていることに興味が惹かれる。私の場合は、そのときに経済問題と抱き合わせる方法をとるので、そのあたりのウエイトの置き方に少し違いがあるかもしれない。それはおそらく、後に言う「生」と「存」との違いだろう。

そうだとすれば、「共生経済」というキーワードで調べてみる必要があるが、内橋克人『「共生経済」が始まる〜競争原理を超えて』(NHK人間講座)には、次のように記されている。

 「いま唱えられている競争至上、市場至上の社会は、他人の失敗 がなければわが身の成功もない、そういう仕組みのなかに人びとを追い込もうとするものです。そうではなく、私たちは、自らの生をつなぐ日々の営みそのものが、即「他」においても同様の歓びの源泉であって欲しい、そう願わずにはいられないのではないでしょうか。そのようなあり方を求めてこその改革でなければならないはずです。いま、この日本列島に、分断・対立・競争を煽り、その裂け目に利益チャンスを置くという「競争セクター」一辺倒に代わって、連帯・参加・協同を原理とする「共生セクター」が力強く芽吹くようになってきました。「もうひとつの日本」をめざす新たなビジョンが次つぎ人びとを巻き込み、勢いを増す時代が始まっているのです。新たな「共生経済」の足腰をさらに鍛え、ひろく普遍的な経済の仕組みへと立ち上げる、そのような新しい日本人の誕生が相次いでいます。」

これによると、資本主義から共生主義へのパラダイム転換を構想していることは明らかであるから、私の考えていることとは共通点が多いと思われる。だとすれば、この共生主義とすり合わせをする必要があるだろうが、私は、共生主義についてまだ十分に研究をしていないので、私の論理の道筋に従って話を進めさせていただきたい。

問題は、すでに「共生主義」を提唱している研究者、評論家などがいるのに、あえて「共存主義」を唱える意味があるか否かである。断わっておくが、私は、「共生主義」に異を唱えるつもりはない。私が長年にわたって考え続けていたことを押しすすめれば、「共存主義」になるだろうということであって、それを「共生主義」と言おうというのであれば、それはそれでよい。しかし、なぜ、「共存」に行き着いたのかということは、はっきり書いておかなければならないだろう。要は、「生」と「存」の違いであるので、その相違を字義のうえから考察しよう。

私は、鉄鋼会社に勤務していた48年前に、高度成長の論理が富、価値を生み出す前に「先取り」をするということに気づき、それ以来このことを考え続け、また、ものの本に書いてきた。そして、所有の形態が変わったという認識のもとで、「資本主義は終わっている」という到達点に立った。したがって、所有形態の変更をもって時代の交替という要素は、新しい時代のネーミングに不可欠だと考えている。

そこで、藤堂明保『学研漢和大辞典』(学習研究社)を引いてみると、「存」には、「ある」、「たもつ」、「この世に生きている」、「なだめて落ち着ける」、「金品を保管してもらうために預ける」という意味がある。一方、「生」の意味は、「いきる・いかす」、「うむ・うまれる」、「はえる・おう」、「なま」、「いきていること。また、いのち」とある。比較してみると、「生」は生物的ニュアンスがあり、「存」には物質的ニュアンスがある。とくに、「ある」、「たもつ」、「金品を管理してもらうために預ける」というのは、所有の概念に隣接していて、私が展開した論理にぴったりである。

因みに、「解字」の欄を見ると、「存」は、「「在の字の左上部+子」の会意文字で、残された孤児をいたわり落ち着ける意をあらわす。もと、存問の存(いたわり問う)の意。のち、たいせつにとどめおく意となる。」とあり、あたかも「共存主義」の目標を示されたような気持になる。これに対し、「生」は、「若芽の形+土」の会意文字で、地上に若芽のはえたさまを示す。いきいきとして新しい意を含む。」とある。これもなかなかよいが、現実性ということになれば、やはり「存」の方が力強いのではないだろうか。

なお、両方に共通している「共」の「解字」は、「上部はある物の形、下部に両手でそれをささげ持つ姿を添えた会意文字。拱(両手を胸の前にそろえる)・供(両手でささげる)の原字。両手をそろえる意から、「ともに」の意を派生する。」とある。

以上により、「ともに生存する」、「互いに助けあって生存する」の意を持つ「共存」をとって、「共存主義」とネーミングしたい。

そこで次回から、「共存主義」の内容について考察を進めることにしよう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/28にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
CNET Japan ブログネットワーク閉鎖に共ない移転しました。