貨幣と「先取り」される虚の価値との交換について

 今回は、「先取り」に関する最も基本的な問題を、理論的に考察することにしたい。

 中身が空っぽの価値を埋め込んだ金融商品は世の中にたくさん出回っているが、ここでは、前(第15回)に説明した「アメリカの債務担保証券(CDO=コラテライズド・デット・オブリゲーション、以下「CDO」という)」を例にとって説明しよう。なお、金融商品の中に入っている中身のない空っぽの価値を、便宜上以下に、「虚の価値」ということにしたい。

 証券化されたCDOの中には、サブクライムローンが埋め込まれているのであるから、そこには、先取りされた虚の価値が入っている。また、サブプライムローンと一緒に混ぜこぜにされたものの中には、社債が入っているものもあるだろう。社債は発行した会社の借金であるから、同じように中身がない。つまり、発行の時点では、中身のない虚の価値である。ただし、観念的には発行した会社の総資産が担保になっているであろうが、担保を実行することになれば社債の価値は激減するのが普通だから、担保の存否はこの際無視してよいと思う。社債の他にも、CDOには、いろいろなものが混ざっているだろうが、その大半は、虚の価値だと言ってよいだろう。

 さて、証券となったCDOは、金融商品として市場に提供される。そして、貨幣と交換される。この貨幣との交換は、「CDOの売買をする」という言葉で表現される。しかし、この売買には、際立った特徴がある。例えば洋服の売買と異なって、対象が物理的に存在する「物」ではないことである。すなわち、交換される貨幣の相手が「物」ではなく、単なる価値、しかも中身のない虚の価値であるという特徴がある。そしてまた、洋服ならば1回の取引で完結し、その後洋服が商品として市場に出てくることはない(中古販売という例外はあるが、頻度が極めて少ないので無視する)。これに対して、証券化されて市場に出た金融商品は、償還されるか、デフォルト(債務不履行)によって消滅しない限り、市場において取引の対象になる。しかも、虚の価値のままで。しかし、金融商品の多くについては、一定の時期がくる度に利息や配当が支払われるから、中身が虚の価値であることは、気づかれない。

 ところで、証券化されたCDOは、市場で貨幣と交換されるので売買と意識されているが、もとをただせばサブプライムローン社債などであるから、その実体は「金の貸し借り」、すなわち、金銭消費貸借である。したがって、CDOなどの金融商品は、「信用」と同一の運命を持っている。ここで「信用」とは、給付と反対給付との間に時間的なずれのある交換という意味である。

 この「時間的なずれ」を巡って、「金の貸し借り」には3つのパターンがある。「金の貸し借り」は、大昔からあったものであるが、金融商品と貨幣との交換に姿を変えても、その基本は変わらない。では、その3つのパターンを見てみよう。

 1つの極には、約束した通りに借りた金を返すというパターンがある。この場合は、貨幣と交換された信用は、はじめは中身がなくても、確実に履行される、すなわち履行によって中身は埋まるのだから、「健全パターン」と言ってよいだろう。このときには、物的・人的担保や成功が見込まれる事業によって担保されることが多いであろう。『ヴェニスの商人』のように船が沈没するようなリスクもあるが、それは例外としよう。いずれにせよ、世の中の「金の貸し借り」が、健全パターンばかりであったならば、経済が混乱することはない。

 もう1つの極には、はじめから返す気持ちがないにもかかわらず、金を借りるというパターンである。これは端的に言えば詐欺である。ありもしないことをあたかも実在するように装って、資金をかき集めることも、この詐欺の類型に属する。東南アジアのえび養殖とか円天マネーなど、その例はたくさんあるが、これが詐欺の一種であることは、誰でも分かるであろう。これを「詐欺パターン」と言うことにしよう。

 以上の2つの両極端のパターンの間に、「中間パターン」と言うべきものがある。この中間パターンは実に幅が広い。一部は返せるが全部は返せないもの、何回かの利子は払うが元本は返せないもの、はじめは返す気持ちがあっても後に返すことができなくなるもの、うすうす返せないかもしれないと思っていたがやっぱり返せなくなるもの、返すのは難しいが運がよければ返すことができるだろうと思っているもの等々。これらが「健全パターン」でないことは確かだとしても、「詐欺パターン」だと言い切ることは難しいだろう。まして「詐欺パターン」にどの程度近いかということは測り難い。

 しかし、「中間パターン」であっても、デフォルト(債務不履行)ということになれば、出した金が戻ってこないという点、すなわち結果は「詐欺パターン」と同じになる。日本航空が発行した社債の価値がほとんどなくなった例を見れば、誰でもすぐに分かることである。

 では、CDOはどのパターンのどの辺の位置にあるのだろうか。また、他のもろもろの金融商品は、どの位置にあるのだろうか。

 吉本佳生著『デリバティブ汚染―― 金融詐術の暴走』(講談社)は「詐欺」という言葉を使って、深刻なデリバティブ金融派生商品)による汚染の危険性に警鐘を鳴らしているが、この本の中に、PRDC債(パワーリバースディアルカレンシー債)という仕組債の例として、1年目の金利は5%、2年目以降の金利は米ドルやユーロや豪ドルに対する円相場に応じて変動し、発行から30年後に満期償還、ただし年1回の利払日に1豪ドル98円以上の円安ならその時点で早期償還というものが挙げられている(同書38頁〜41頁)。このような金融商品は、「中間パターン」の中でも、どの辺に位置しているのであろうか。複雑すぎて目がくらむほどである。

 いずれにせよ、さまざまなデリバティブなどを混ぜこぜにして、あたかも「健全パターン」あるいは「中間パターン」のように装いながら、限りなく「詐欺パターン」に近い金融商品が、世の中にはたくさん出回っているのではないかと思われる。金融商品に格付けが行われたり、市場で大々的に売りさばいたりする装置があること自体、どうも怪しいと思うのは、私だけでないようだ。

 この3つのパターンを頭の片隅に置いたまま、考察を前に進めよう。

 ここでもう1つ考察しておきたいことは、いったい「貨幣」とは何かということである。

 岩井克人教授によれば、「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである。すなわち、貨幣が貨幣としての役割をはたすためには、それに対する社会的な労働の投入や主観的な欲望のひろがりといった実体的な根拠はなにも必要としていない。」(『貨幣論筑摩書房・64頁)

 「貨幣とは何か」ということに対しては、古くから貨幣商品説、貨幣法制説などの論争があったようだが、私にとっては、岩井教授の説が腑に落ちる。

 私は幼少のとき、昔は貝殻がお金であったと絵本に書いてあったのを読んで、どうにも信じられなかった。貝殻ならば海岸に行って拾ってくればよいはずなのに、なぜそんなものがお金になるのだろうかと疑問に思い、長い間ひとりで考え続けていた。中学生になった頃には、長い時間をかけて探し当てたものと、短い時間で見つかったものとが同じ貝殻だったとしても、それは同じ値打ちの貨幣になるはずだが、それでよいのか、と疑問はふくらんだ。それらの疑問は長い間解けなかったが、高校生のときにふと、皆が貝殻を貨幣として扱うのならば、貝殻が貨幣であってもよいのだ、貨幣として受け取った人がまた貨幣として使うのであれば、それでよいのだと納得したような気持ちになった。

 幼少のときからの疑問を書いた理由は他でもない。仮に現在の貨幣が精巧な装置と壮大な組織によって操られているものだとしても、それは貝殻と同じものに過ぎないということである。すなわち、それは貝殻と同じ危うさのうえに成り立っていることである。では、――

 貨幣として扱われて人の手から手に渡されるものを貨幣というのであれば、貨幣と交換されたCDOなどの証券化された金融商品はいったい何なのであろうか。

 貨幣は、そのもの自体に値打ちがない。すなわち貨幣は、安物の鋳貨か、薄っぺらの紙でできた紙幣か、電磁気的に書き込まれたエレクトロニック・マネーに過ぎない。その点では、金融商品も同じである。金融商品には利子や配当がつくのが多いので若干の違いはあるが、金融商品金融商品として扱われ、人から人へと転々と流通する限りは、金融商品である。この最も本質的なところは、貨幣とそっくりである。このことは、洋服などの物質的な質量を持つ商品と金融商品との違いを考えてみればすぐに分かることである。

 そこで、次に金融商品の動きを見てみよう。これから先は、「デリバティブ」(=金融派生商品)ということにする。

 前(第15回)に述べたように、レバレッジという作用を使って、市場では10分の1の保証金で10倍のデリバティブを購入することができる。すなわち、取引の当初の段階では、10分の1の貨幣で10倍にふくらんだデリバティブが市場から流通のプロセスに出てゆくのである。

 ところで、CDOは、もとはといえばサブプライムローン社債などの虚の価値だった。その先取りされただけで中身のない虚の価値が、貨幣と同様に、電磁的に刻印さえすれば、あたかも価値があるように大量に世の中に出回る。そして、あちこちにばらまかれ、まず貨幣と入れ替わり、さらに潜入して所有権の中身と入れ替わり、人や企業が所有しているものを空洞にしてしまうのである。

 ここで注意を要するのは、デリバティブは、貨幣が崩壊するより早く崩壊の日を迎えるということである。サブプライムローンの例で分かるように、デリバティブは中身がなく、大きな空洞を抱えている。したがって、その空洞を埋めることができないことが明らかになったり、その他のきっかけがあったりすれば、デリバティブは貨幣より容易に崩壊する。そして、デリバティブは、それ自体は貨幣と同様に無価値なものであるから、崩壊するときは、単なる金属片、紙切れ、電磁気的に書き込まれた情報コードになってしまい、無価値な屑になってしまう。しかも、貨幣はすでにあちこちでデリバティブに入れ替わっているのであるから、貨幣が貨幣でなくなっていなくても、デリバティブが蔓延している現時点で、すでに危険な状態になっていると言わなければならない。

 では、わが国には、どの程度の量のデリバティブが存在しているのだろうか。2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済計算確報によると、金融機関が保有している金融派生商品デリバティブと同義であるが、国民経済計算確報では「金融派生商品」となっている)は66兆9524億円、民間非金融法人企業が保有している金融派生商品は2兆1023億円、家計(個人企業を含む)が保有している金融派生商品は4475億円である。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだろうが、2006年末では金融機関が20兆3516億円、民間非金融法人企業が1兆5856億円、家計が1375億円、2007年末では金融機関が28兆799億円、民間非金融法人企業が1兆5607億円、家計が2199億円であったことと比較すると、2008年に至って急増していることは明白であり、すでに危険水域に入っていると言ってよいだろう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/07にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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