「先取り」による資本主義の終焉

私は前(第8回)に、「先取り」――すなわち、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうこと、先取りした段階では中身のない空っぽの価値――が、私的所有、契約、法的主体性という資本主義の基礎を毀してしまったことによって、「資本主義は終わっている」ことを論証しようと考えていると述べた。

 今回は、「先取り」が資本主義の基礎を毀してしまって、すでに終焉していることを明らかにしたい。そこでまず、資本主義の基礎を見ておこう。

  これも前(第8回)に述べたことだが、資本主義経済における社会の規範関係は、私的所有(富=商品に対する排他的な完全な支配の相互承認)、契約(商品に対する排他的支配の相互承認という前提の下では、商品の交換は、交換当事者双方の合意なくしては存在し得ない。この合意が契約である)、法的主体性(商品交換においては、交換当事者は、私的所有及び契約をとおして、相互の独立主体性――すなわち法的主体性――を承認しあっている)の3つの要素が基礎となっている(川島武宜民法総則』有斐閣・2頁〜4頁)。

 つまり、封建時代が終わって近代に入り資本主義の時代になったメルクマールは、個々の人間が領主の支配から脱して主体性を持った自由な個人になったこと、同時に土地をはじめ私有財産を持つことを禁じられていた支配を排除して私的所有が認められるようになったこと、独立した個人が生産した商品(私有財産)を対象にした契約によって取引することができるようになったこと、以上の3つである。

仮に私有財産を持っていなくても、法的主体性を持った各個人は、自分の労働力を売ることによって、富と交換することができる。これが資本主義の基本的な仕組みであって、私的所有、契約、法的主体性は、資本主義の基礎をなす3つの要素だと言われている。したがって、この3つの要素が揺るがずに維持されている限り、「資本主義」は終わっていないが、これが維持できなくなると基礎が崩壊し、「資本主義は終わっている」と言ってよい状態になる。

 そこで、この3つの要素が揺るがずに維持されているかどうか、そのことによって、まだ「資本主義」の時代だと言えるか否かを、考察しておきたい。

 なお、川島教授の定義は、商品取引に特化しているような印象があるが、この3つの要素は、資本主義社会に共通する基礎であり、今まさにその資本主義が終わっているか否かをテーマにしているのであるから、商品取引に囚われないで論じたい。ただし、3つの要素と言っても、これは理念形態であるから、多少の揺るぎは大目に見ることにしよう。問題は、それを維持しきれなくなっているか否かである。

 まず、国債が私的所有をどの程度侵食したかを見ておこう。


 2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済確報によると、個人と民間企業と民間非営利団体が所有する正味資産は、2717兆6230億円である。

これに対し、2010年度の予算によると、2010年度末の国債と借入金、政府短期証券を合わせた債務残高の総額は973兆円になる。時点のずれはあるが、個人と民間企業と民間非営利団体が所有する正味財産はここ数年間減少の傾向にあるので、2008年末の数値を使っても大きな違いはないだろう。

そうすると、マクロ的にみれば、民間が所有する正味資産の約3分の1に匹敵する国の借金があるということである。一方、2010年度予算に計上された税収が37兆3960億円であるから、その数字で国の借金の長期債務973兆円を割ると、約26という答が出る。すなわち、この国の借金を税収で返すのであれば、26年間かかるのである。

この26年間という数字は、税収をすべて国の債務の償還に充てた場合の話である。すなわち、この間は、福祉にも、教育にも、公共事業にも、司法にも1円も使わずに、ただひたすら借金の弁済をしなければならない。国の債務には利息がついているから、その分26年間はさらに先に延びる。家計に譬えれば、食うものも食わず、着るものも着ずに、ただひたすら借金だけを返すことを意味する。果たして、そんなことができるのだろうか。つまり、税収で国の借金を返すことは、もはやできない段階にきているのである。

2010年度予算は、もう1つ大きな特徴がある。それは、税収が37兆3960億円であるのに対し、公債金が44兆3030億円であることだ。つまり、税収が公債発行額を下回ることだが、それは昭和21年度(1946年度)以来の出来事である。1946年度予算と言えば、第二次世界大戦が終わった直後に組み立てたものであるが、要するに戦争に負けて焼け野原になり、経済、社会が大混乱に陥っている状態のときのことである。その頃のことが記憶に残っている人は70歳以上の年齢に達しているが、私には、当時の焼け野原の光景と現在の経済、社会の風景とが二重写しになって見える。

こうしてみると、通常の方法では、税収で国の債務を返すことはできないと言わざるを得ない。もはや、税収で国の債務を返すことができると思っている人はいないであろう。政治家の中でも、それが可能であると考えている人は、おそらく1人もいないと思われる。それは何も非難に値することではない。幻想は持たない方がよいのである。

では、通常でない方法で国の債務を払うことはできるのだろうか。

昔から徳政令というものがあった。それは要するに借金の棒引きであって、こういうときに使われる手段である。つまり、国の債務を全部棒引きにすれば一気にそれが消えてしまうので、国にとっては極めて都合のよい方法。そんなことをすれば経済が大混乱するので、わが国の政府が徳政令を発布することはあり得ないが、私がここで言いたいことは、国民が所有している資産は、すでに国の借金の型(担保)に入っているということである。すなわち、先ほど見たように、私的所有のうちの3分の1は、国債その他の国の債務、すなわち、「先取り」によって侵食されているのである。

したがって、徳政令が発布されなくても、何らかの方法で、いつの日にか、国民の資産は国によって巻き上げられることになるだろう。なぜならば、すでに私的所有は「先取り」され、今の時点で3分の1はなくなっているのであるから。あとは、それを現実に実行されるだけのことである。私の「先取り」の仮説を思い出していただきたいが、ここに「生み出される前に先取りされた虚の価値が、後にいかにして実の価値として埋めつくされる」という「本質的矛盾」が強烈なエネルギーをもって露呈されるのである。

 では、具体的に、どのような方法で実行されるのであろうか。

 その中には、意識的に行われるものや、成り行きで行われるものや、別の目的で行われたことが結果として実行されたことになるものなど、さまざまな方法がある。

 意識的に行われるものの代表は「増税」であるが、景気の一層の悪化や選挙を意識して消費税のアップを決められない一例だけを見ても、近い将来に実現する可能性は薄い。まして、国の債務残高の総額が973兆円という規模になれば、少々の増税では追いつかないだろう。それはともかくとして、ある程度の時間が過ぎれば増税は実行されるだろうが、それが行われれば、国民の資産はそれに見合う分だけ減少することになるから、虚の価値が実の価値として埋めつくされるという意味での実行がなされることになる。

 ここで、「先取り」された虚の価値が、他人の所有権に潜り込んで、その中身を取ってしま例を挙げておこう。これは、空っぽの中身のない価値、すなわち私の言葉によると「虚の価値」が実の価値として埋められるもう1つの方法であると言い換えることができる。

 住宅ローンを組めば担保権が設定されるので、所有権は借り手にあっても、経済的に見ると、中身の価値はローン金額を差し引いたものになる。しかし、当事者間のやり取りとは別に、「先取り」が大々的に行なわれると、一時的に不動産の価格が暴騰する。そして、それに伴って、相続税や譲渡所得税が吊り上る。すなわち、「先取り」された虚の価値が他人の土地に潜り込んで、相続税や譲渡取得税として忍び込み、その分だけ所有権を侵食するのである。

 例えば、以前の地価暴騰のときのことであるが、1993年2月15日付け朝日新聞夕刊には、高級住宅地の代名詞にもなっている東京・田園調布で、初老の夫婦が地価高騰で跳ね上がった自宅の土地の相続税の重圧に耐えかね、自殺していたことが報道されている。このように、国債の発行などで「先取り」された価値が、地価を跳ね上げることによってその中に潜り込み、税金として吸い上げられる仕組みになっていたのである。すなわち、自分のものだと思っていたものが、実は自分のものではなくなっていたのだ。

 これは一例であるが、国債などの国の債務残高が973兆円にもなっていると、自分が所有しているものの中に、「先取り」による虚の価値が相当潜り込んでいて、相続や売買などの機会に現実に所有権を奪われてしまうのである。

 以上によって、資本主義の基礎をなしている3つの要素のうちの「私的所有」の相当の部分がすでに壊れていることが明らかになった。ここで、「相当の部分」と言ったが、国民の資産と国債発行残高の割合だけをとっても、3分の1になっていることはすでに述べたとおりである。その他にも、「先取り」に侵食されているところがあるから、それ以上に空洞になっているはずである。基礎というものは、3分の1以上も空洞になれば、その上に載っている建物は倒壊を避けることができない。上に載っているものが大きければ大きいほど倒壊の危険性は大きく、また、その影響が甚大になる。

 これまで資本主義の基礎をなしている3つの要素のうちの「私的所有」について述べてきたが、残りの2つの要素、すなわち、「法的主体性」と「契約」についても、ざっと見ておこう。

 これまでに述べたように、「先取り」は金融崩壊、経済危機もたらした。これによって精神病が増え「法的主体性」が危うくなっている現実がある。しかし、何と言っても大きな問題は、資本主義は労働力を売って食べてゆくことが前提になるのに、その前提が崩れていることである。具体的には派遣労働者の問題など、現在の日本で起こっている問題をあげれば枚挙に暇がないが、失業者が増加し、労働力を売りたくても売ることができない状況になったとき、すなわち、自分で食べてゆけなくなったときには、法的主体性も何もあったものではないではないか。すなわち、「私的所有」が「先取り」に侵食された結果、その影響で「法的主体性」も崩壊しつつあるのである。

 「契約」については、契約の危機という言葉が、以前から流布されていた。すなわち、今日の社会は、当事者の意思決定に介入して、さまざまな局面で契約への公的介入を要請し、また許容しており、多くの規制が加えられてきた。それに伴い、伝統的な契約法は、大きな変貌を迫られるようになった。これは、今日の社会が共通に抱えている現実であるが、経済危機が叫ばれるようになると、いっそうの現実性を帯びてくる。

 例えば、破綻した企業に公的資金を注入するとき、受け入れる側は、意思決定に制約を受けるだろう。また、農林漁業に対して財政援助をする必要が生じたときには、土地の利用方法などにおいて特殊な契約をすることがあるのではないだろうか。こうしてみると、「契約」の要素も、単なる揺らぎにはとどまらず、修復のできない段階に入っていると思われる。

 以上により、資本主義の基礎である3つの要素、すなわち、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」の相当部分が壊れていることが明らかになった。ここまで基礎が壊れれば、その上に乗っている建物、すなわち資本主義の表層がどんなに立派に見えても、すでに「終わっている」と言ってもよいのではないだろうか。ヴェルサイユ宮殿がいかに堂々と立っていても――現在でもパリの西南に行けばその美しい姿を見ることができる――「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という基礎の上に「近代」が築かれた時点で、すでに近世は「終わっている」のである。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/14にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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