現在はすでに共存主義

私は、前(第1回)に、1つの体制が終わり次の体制に移行するときには、誰が見ても分かるようなメルクマール――ごく簡単に言うとすれば、転換の節目に武力が行使されることと、所有形態の変更が行われること――があると述べた。

 ところが、「資本主義」から次の時代――私のネーミングによれば「共存主義」――への移行は、武力が行使されていないから、非常に分かりにくい。しかし、所有形態の変更は徐々に進行し、もとに戻らないところにまで達しているので、現在はすでに「共存主義」になっていると言えよう。

とは言え、所有形態の変更も目立たないので、分かりにくい。これが「資本主義が終わっている」と認識されていない理由の1つだと思うが、今回の資本主義から共存主義への移行は、極めて特徴がある。

それは、旧体制を壊す勢力と新体制を作る勢力とが別であることだ。これまでは、例えば、坂本竜馬高杉晋作西郷隆盛大久保利通桂小五郎勝海舟三条実美は、その果たした役割はそれぞれであったが、旧体制を壊し新体制を作るひとかたまりの勢力の中で、ほぼ同じ方向を向いていた。

しかし、この度の資本主義から共存主義への移行は、壊す勢力と作る勢力が別である。まず、いったい何時移行されたのかという線を引きにくいところに問題があるが、私は、その線を、2008年のアメリカ発の金融崩壊によって、新自由主義の思想が退場したときに置いている。しかしこれは、壊した勢力はある程度分かるが、作る勢力がはっきり見えてこない。すなわち、少なくとも、壊した勢力と作る勢力が別であることは明白であるが、作る勢力があらわれたとも思われないところに、いっそうの分かりにくさがある。

このように考えると、資本主義から共存主義への移行が分かりにくいところに真の危険が潜んでいるのではないかと思い当たる。しかし、世の中を見回すと、「現在はすでに共存主義」という状況がたくさんあることに気付くので、その現象をひととおり見ておこう。

まず、現在では、富の蓄積→資本という形になるのでなく、いわゆる「資本」の調達方法そのものが変ってきている。これを、「資本」という概念を使わずに、事業を起こし、運営するための「資金」の調達という観点でものを見ると、おおまかに言って次の3つがある。

すなわち、――�個人、企業の私的蓄積を使い、または集めて資金とするもの、�国家その他の公的資金からの調達、�先取りによる調達の3つ。

 �〜�のシェアはどうなっているのか、私はまだ計量していないが、�〜�は、それぞれそれだけで完結するものではなく、入り組んで複雑なものになっている。�〜�のうち、�だけならば、資本主義と言ってよい。また、�があっても、「先取り」した企業体が確実に返済可能であり、そのことが経済社会に行き渡っているのならば、「資本主義」が健全に機能していると言ってよい。

 しかし、�のシェアが増え、�が返済不能の域に達すると、企業体を起こし、運営する資金は、資本として調達するものではないから、もはや「資本主義」とは言えなくなってくるのではないだろうか。

 とくに�の「先取り」による調達が亢進し、それが爆発して経済が破綻したときには、�にシフトされてゆくから、いっそう「資本主義」からは遠くなる。そして、市場に対するコントロールの必要性が叫ばれるようになると、もはや、「資本主義」と言うか言わないかは、言葉の問題になってくる。

また、そうなったとき、受け皿の企業体=経営体も株式会社とは限らなくなる。仮に、株式会社の形体を残したとしても、事実上政府の管理下に入ることもある。このような体制になったとき、それでも「資本主義」と言えるのだろうか。

しかし、断っておくが、私は、資本主義が全部終わっていると主張しているのではない。まだ市場や株式会社など、資本主義の中のいろいろな要素は残っている。そして、資本主義的生産方式は存続させ、健全な競争原理が機能する経済である方が望ましいと思っている。そのようなものを包摂している体制だからこそ「共存」なのである。しかし、金融市場が規制の対象にされたり、金融大手シティグループの株価の急落により国有化が懸念される例に見るように、もはや市場原理主義謳歌したような時代ではなくなっていることは確かである。そのことを考えれば、すでに「資本主義」から「共存主義」に移行していると言ってもよいのではないかと思う。

よく言われるように、現在の資本主義は、社会主義の政策を取り入 れている。しかし、社会主義の政策を取り入れるまでもなく、国や公共団体が設立し、運営している仕事は、世の中にたくさんある。国によって違いはあるだろうが、ここに、資本主義の論理によらない仕事、一部または全部が市場原理に従っていない事業を列挙してみよう。

 教育、医療、福祉、年金、介護、環境、宇宙開発、裁判、警察、防衛等々。このうち、裁判、警察、防衛は、がちがちの夜警国家論でも国家の仕事として認めているから、誰でも異存のないところであろう。

 新自由主義を旗印にし、「民営化」、「民営化」と騒いでも、民営化できるのは一部であって、全部ではない。民営化できないものはいっぱいある。また、「民」が転べば、「公」が援け起こさなければならない。こういうことになっているのに、全体を指して「資本主義」というのは、もはや無理というものではないだろうか。

「公」の仕事が増えれば、いきおい国民の負担を増やさなければやってゆけなくなる。したがって、国や地方公共団体は国民、住民の負担を増やそうとし、国民、住民はそうはさせまいとしてせめぎ合いが起こる。しかし、はじめから国民、住民が負担するものとして、経済、社会の仕組みをつくったら、どういうことになるだろうか。

2009年2月3日付け毎日新聞に「高福祉・高負担 スウェーデンに学ぶ点」という藤井威元駐スウェーデン大使に対するインタビュー記事が掲載されていたので、それによってスウェーデンの実例を見ておこう。

まず、消費税は現在25パーセント。税などの負担は収入の約4分の3にも上る。この増税路線が成功した理由は、「福祉サービスの権限と財源を国から地方に漸進的に移したこと。そして、地方のコミュニティーがちゃんと残っていて、市民がそのコミュニティーを大切にしようという気持ちを持っていたこと」だと言う。また、「税金が高すぎる」とは思わないのだろうか、という疑問に対しては、「『高い』とは思っていますよ。でも『それだけのことはしてもらっている』『富の再配分につながる』との意識もある」、「自信を持って言えますが、低所得者は喜んで税金を納めます。納税すれば収入以上に高価であろう各種サービスを受けられるからです。高額納税者も『高負担』には反対できません。彼らは年収が少ない時期にさんざん世話になっているのですから」とのことである。そのスウェーデン国内総生産の実質成長率は06年4・0%(日本2・7%)。96年から10カ年で、日本はマイナス成長が2回あったのに、スウェーデンは一度もない。高負担のハンディなどどこ吹く風、である。そして、スウェーデンと日本の最大の違いは、公共部門にやってもらいたいことは山ほどあるし、やらせなければならない、それが民主主義だと考えていることである。

 この記事はいろいろな意味で参考になるが、私がとりわけ興味を引かれるのは、国民の税負担が年収の約4分の3にも及ぶという部分である。ということは、収入の約4分の3がいったん「公」に入り、そこから経済循環がはじまるということである。それならば、前に見た資本主義の論理、市場原理によらない仕事、事業に潤沢に資金を投入することができるはずだ。だとすれば、このスウェーデンの経済循環システムは、資本主義だといえるのだろうか。もとより、スウェーデンにも資本主義の仕組みは残っているが、それを内包している新しい仕組み、すなわち「共存主義」ではないだろうか。

 資本主義の本来のあり方からすれば、市場で敗北したときには退場して姿を消すことになるはずである。しかし、大手金融機関や業界を代表するような大企業が経営破綻したときに、破産や整理をするのはあまりにも影響が大きくて、そのまま退場させるわけにはゆかない。例えば、大手自動車メーカーが破産したとしよう。そうなると、下請け部品メーカーや取引先が連鎖倒産を起こす。また、自社および関係の企業から何万人もの失業者が出る。不要になった大きな機械はスクラップになり、企業城下町はゴーストタウンになる。

 そこで、このような事態になることを避けるために、公的資金が投入される。 アメリカを例にとれば、まず、ブッシュ前政権が総額7000億�(約63兆円)の公的資金枠を用意し、金融機関に資本注入した。そして、2009年2月10日、オバマ政権は、官民合同で不良債権を買い取る基金を創設することを柱とする新たな金融安定化策を発表した。その額は、最大で2兆�(約180兆円)超になるという。

 さらに、同月18日には、金融危機の原因になっている住宅ローンの焦げ付き増加に歯止めをかけるために、政府が返済額を大幅に減らすことを盛り込んだ救済策を発表した。そこで投入する公的資金の総額は750億�で、支援する対象は、最大900万の住宅所有者だということである。

 そうこうしているうちに、金融大手シティグループの株価が急落し、一時1・61�まで値下がりした。これを背景にして、アメリカ政府は、政府の保有する優先株の一部を議決権のある普通株に転換し、約36%のシティ株を取得することになった。これによって、シティグループは事実上の「政府管理」に入った。

 以上は、アメリカの例であるが、ほぼ同時期に、日本では追加経済対策の財政支出規模を15兆円とする補正予算案が提出されたし、欧米各国でも金融危機に対して公的資金を投入することが決められた。

 このような動きを見ると、リーマン・ブラザーズのように市場からの退場という結末になったものもあるが、たいていの大手金融機関や大企業は、一部整理や縮小をしても何らかの方法で救済されることになるだろう。しかし、その場合には、国有化されたり、国の管理に入ることになる。例えば、公的資金を受け入れるときに新株が発行されることがあるが、これは株式会社の形を借りるだけのことで、実質は「資本」には関係のない公的資金である。

 結果論になるかもしれないが、一連の動向をトレースすると、「先取り」経済の中に、いざというときには財政出動を要請するということが予め織り込まれていかのではないかと思われてくる。なぜならば、財政出動なしに難局は乗り切れないからである。これまでも財政出動をしてきたし、これからも「先取り」が続く限り、財政出動を余儀なくされることは間違いない。

 しかし、いざとなれば財政出動公的資金の投入という後ろ盾がある体制を「資本主義」と言うのだろうか。しかも、公的資金として投入される金は、もとをただせば、国民から調達した税金か、これから調達するはずの税金を担保にしてつくる金である。これは、ある意味で不健全だが、現実に他ならない。

 この現実を素直に見れば、現在の体制はもはや「資本主義」ではなくて、すでに「共存主義」に移行していると言ってよいと思われる。

 ところで、2010年5月2日、財政危機に陥ったギリシャ政府は、約300億ユーロ(約3兆7000億円)規模となる財政再建策を閣議決定した。これを受け、欧州連合(EU)と国際通貨基金IMF)による3年間で総額1100億ユーロ(約14兆円)規模の協調融資を正式に決定することになった(同月3日付け朝日新聞)。しかし、昨日来のニュースによると、ギリシャでは、公務員の減給や人員削減、付加価値税の増額に反対する暴動が起こっているという。

 財政危機の元凶は、言うまでもなく「先取り」である。すなわち、ギリシャの事件は、「先取り」が財政危機を招き、経済だけでなく、社会を崩壊させることを、端的に示すものに他ならない。

 したがって、すでに資本主義という1つの時代が終わっていることを認識し、速やかに次の時代――共存主義――の基礎を固めるために手を打たなければならない。(廣田尚久)

※本エントリは2010/05/06にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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