漂流する「資本主義」

 資本主義の基礎である「私的所有」、「法的主体性」、「契約」が壊れていて、すでに「資本主義は終わっている」という状態になっていることは、前回に述べたとおりであるが、それでも、漂流する資本主義を沈没させまいとする試みは、いろいろ行われている。そのために、人々は資本主義が終焉していることに気づかないのだと思うが、まずはその試みを見ておこう。

例えば、「私的所有」が壊れていることは前回に見たとおりであるが、壊れた部分に公的資金を投入することによって、漂流船を修繕する試みがなされている。これは、「私的所有」を「公的所有」に置き換えることによって、基礎を補強する工事だと言ってもよいだろう。

 公的資金を投入するパターンはいろいろあるが、その1つは、一定の機関を通して投資をする方法がある。例えば、日本航空会社更生法の適用を申請した際には、企業再生支援機構が3000億円以上の増資を引き受けることが事業再生計画案の骨子に入っているが(2010年1月20日付け朝日新聞)、企業再生支援機構は事業の再生を支援する官民出資の企業であり、ここを通じて多額の公的資金が投入されることになる。一方、日本航空のこれまでの株式や社債はほとんど無価値になり、株主や社債の持ち主は、アッと言う間に「所有権」を失った。こうして、日本航空の「私的所有」の多くの部分が「公的所有」に置き換わったのである。これは1つの例に過ぎないが、こうして公的資金を受け入れた企業の所有権の一部または全部は、実質上公的資金に占められることになる。

 もともと資本主義の原則からすれば、事業に失敗すれば市場から退場するのが筋である。しかし、日本航空ほど規模が大きくなると、経済的、社会的影響が大き過ぎて、市場から退場させることはできない。このようにして、公的資金を投入する方法で修理し、積荷を海に捨て――具体的には、不採算路線を廃止したり、人員削減をしたりしながら――救助船が来るのを待つのである。

 これについては、資本主義と社会主義の混合経済という考えに立って、基礎が「私的所有」と「公的所有」が混在してもよいのだという反論が起こるかも知れない。しかし、混合経済という考えそのものに問題があることは、前(第9回)に述べたとおりである。また、そもそも資本主義の基礎となっている「私的所有」の一部が「公的所有」に置き換わること自体が、資本主義の終焉を告げていると言うことになるのではないだろうか。

  そのことはさて措くとしても、「公的所有」の元を辿れば国債発行等の「先取り」によって調達した財源であり、それは中身のない空っぽの価値、すなわち、「虚の価値」であるから、結局のところ基礎のあちこちにジャンカ(空洞)が発生していると言わなければならない。したがって、「私的所有」の一部を「公的所有」に置き換えても、資本主義の基礎は修復ができないほど壊れていると言えよう。すなわち、漂流する「資本主義」を沈没させまいとする試みは、きわめて頼りないものであると言わざるを得ない。

 なお、中身のない空っぽの価値――私の言う「虚の価値」――を作り出す方法は、国債だけではない。その方法については、吉本佳生著『デリバティブ汚染――金融詐術の暴走』(講談社)に詳しいので是非お読みいただきたいが、そこで作られた「虚の価値」は金融派生商品デリバティブ)という形になって、あちこちの地方自治体、大学、年金基金等に売り込まれ、基本財産とデリバティブが入れ替わっていることがよく分かる。すなわち、そこでは基本財産がすでに空洞になっているのである。

 さらに、2010年1月29日に内閣府が発表した2008年末の国民経済計算確報によると、金融機関は66兆9524億円、民間非金融法人企業は2兆1023億円、家計(個人企業を含む)は4475億円の金融派生商品デリバティブ)を保有している。これは、「先取り」されたものであるから、あらかた「虚の価値」と言ってよいものである。

 これらのデリバティブという姿の莫大な「先取り」された「虚の価値」が作った空洞を、将来実の価値によって埋められる保証は、どこにもないのである。このことも、『デリバティブ汚染――金融詐術の暴走』に指摘されている。

 やっかいなことに、経済がグローバル化しているために、「先取り」もグローバル化している。サブプライムローンによって先取りされた中身のない空っぽの価値=「虚の価値」は、どんどん肥大化して、世界中のあちこちに潜り込み、実体経済にも影響を及ぼし、世界中に失業者を溢れさせているのである。

 このように、今や資本主義は、国債デリバティブなどの「先取り」された虚の価値を満載して、荒海の中を漂流していると言ってもよいだろう。ただし、現在の段階で高度成長を謳歌している中国、インド、ブラジルなどを念頭に置いて、資本主義が漂流していると見るのは早計だと考える人もいるだろう。しかし私は、非常に高い確率で、これらの諸国も、欧米や日本と同じ道を辿ると思っている。要は時間の問題であって、やがて漂流がはじまるだろう。

 それでもなお、漂流する「資本主義」を沈没させまいとする試みはいろいろ行われるだろう。しかし、結局は打つ手がなくなって、放っておかざるを得なくなるかもしれない。では、放っておかれたら、どうなるのだろうか?

 目に浮かぶのは、荒涼たるゴーストタウンである。マイケル・ムーア監督の映画『キャピタリズム マネーは踊る』には、広大なGMの工場跡地が出てくるが、あの姿である。そして、経済現象としては、何が起こるのだろうか。

 まず考えられることは、貨幣価値の下落という結果である。貨幣価値が下がれば、国債を代表とするもろもろの借金は、相対的に下落した分だけ帳消しになる。すなわち、先取りした「虚の価値」は萎んで小さくなり、その分だけ楽になるのである。しかし、デフレ・スパイラルが懸念されている昨今の経済情勢では、貨幣価値の下落を期待するのは無理だろう。

 それでも、タイムスパンを長くとれば、貨幣価値の下落は、必ず起こる現象である。したがって、気長に時間を稼いでいれば、漂流する資本主義も、いつかは安全な港に辿りつくかもしれない。しかし、その長い間に、国は国債の増発を続け、企業は借金を増やし続けるだろう。だから、とても長い時間をかけるわけにはゆかないのではないだろうか。973兆円にも及ぶ国債などの国の借金だけをとってみた場合、仮に長いタイムスパンをとって貨幣価値の下落があったとしても、通常の方法では、とうてい消すことはできないと思う。

 だとすれば、通常の方法でない、もっと過激な方法で、貨幣価値を下落させることが起こる可能性が高い。この過激な方法による貨幣価値の下落という現象は、人類は何度も経験している。具体的に言えば、ハイパー・インフレーションである。前に述べたように、第一次世界大戦の後のドイツ、第二次世界大戦後の日本、最近のジンバブエ

 なお、貨幣価値の下落には、戦争が一役買っていることを見逃すわけにはゆかない。すなわち、資本主義は、矛盾の解決手段として戦争を抱えているのである。これは歴史が証明していることであって、これまでは多分にそうであった。そして、これからはそうでないという保証はない。こうしてみると、資本主義の仕組みの中に戦争が内蔵されていると言ってもよいが、これは本稿の主題と少しずれるので、先に進もう。

 貨幣価値の下落でないとすれば、古典的な方策に見えるが、徳政令はどうであろうか。つまり、シラーが「歓喜の頌歌」に書いた「われらの債権簿を破棄せよ」である。ベートーヴェンは、交響曲第9番でこの部分に曲を付けていないが、シラーは、全世界が和解するためには、「債券簿の破棄」が必要だと考えていたようである。私は、詩人の感受性と洞察力を多としたいが、それにしても、そのあとどうなるのか、大いに心配である。すなわち、これを実施すれば、その瞬間に「先取り」された虚の価値は消えるが、虚の価値といえども、そこには債権者が実在する。したがって、徳政令が実施されれば債権者は大損することになるので、経済、社会の混乱は必定である。

 では、徳政令の方向はないということになるのだろうか。そうではなく、漂流する資本主義を部分的に修繕する方法として、ときどき採用されているのである。例えば、オバマ大統領は、2009年2月18日、金融危機の原因になっている住宅ローンの焦げ付き急増に歯止めをかけるため、政府が補助金を出す救済策を発表した。その総額は7兆円で、最大900万の住宅所有者を支援するということについては、前に述べたとおりであるが、その方法として、住宅ローン会社や銀行などの貸し手が金利を下げて月収のローン返済比率を38パーセントまで軽減し、残りの負担は貸し手の金利減免と政府補助金で折半する仕組みだという。

  また、わが国において記憶に新しいところでは、2009年11月30日に成立した「中小企業等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律」(いわゆる「中小企業金融円滑化法」)である。これは江戸時代の徳政令と比較すれば不徹底なものであるから、これを徳政令であると言い切ることはできないが、金融機関に返済猶予を促すものであるから、少なくとも徳政令の思想を汲み取った施策であると言うことはできるだろう。

 その他にもう1つあるとすれば、財政出動をし続けることである。これは、漂流する資本主義の破損個所を修繕するための応急処置としてやむを得ないことかもしれないが、中身のない空っぽの価値、すなわち、「虚の価値」は膨らむばかりになる。したがって、そんな方法がいつまでも続くわけはない。

 現在のところ、貨幣価値を下げる方向、徳政令の方向、財政出動の方向の3つの方向からの力学が働き、とくに徳政令の方向、財政出動の方向の複合形態が模索されているが、いずれ、貨幣価値を下げる方向へ向かわざるを得ないのではないかと思われる。

  私は以前、時代が移行するときには、所有形態の変更があり、それこそがメルクマールであると述べた。ここで述べたことは、現在のところ革命のような目の覚める変化ではないが、所有権の絶対性というドグマから見れば、すでに所有形態に大幅な変更があり、その結果、「資本主義は終わっている」という状態になってしまったと言ってよいのではないだろうか。

 ところで、これまで、「私的所有」、「法的主体性」、「契約」を資本主義の基礎をなしている3つの要素であると述べてきた。では、資本主義でない体制になると、この3つの要素はどのようになるのであろうか。

 広い意味の社会主義にはさまざまなバリエーションがあり、社会主義もどきの全体主義などというものがあるので、その全部について検討することはできないが、最も極端な共産主義について、大雑把に見ておこう。

 共産主義の経済体制のもとでは、まず「私的所有」は否定され、生産手段の社会的所有という形態になる。そして、「法的主体性」は大幅に制約され、個々人が自由な意思に基づいて「契約」するのではなく、一定の計画によって規制される。また、法的主体性のある労働者が自己の労働力を売るのではなくて、能力に応じて労働し、配分を受ける。しかし、現実には、その社会を運営、維持するために、厖大な官僚機構がつくられ、往々にして独裁政治が行われる。

 このように図式的に書くと、あらかたの人は、いくら資本主義がおかしくなっても、共産主義になるよりもましだと思うであろう。しかし、漂流する資本主義にいつまでも拘泥していてよいのであろうか。前に述べたように、あれこれ修繕をしても、もう持たないのではないのではないだろうか。まして、放っておいたらなおさら危ない。早く手を打つに越したことはないはずである。

 そうだとしたら、発想をガラリと変えて、資本主義とは別の時代の基礎を築いたらどうだろうか。もとより、共産主義とも違う別のものの。

 前(第3回)にも述べたように、「資本主義では器が小さすぎる」のである。すなわち、「近代」がスタートしたときには、その基礎が「私的所有」、「法的主体性」、「契約」という3つの要素でもよかったのだが、それから200年以上を経た今日では、基礎が脆弱過ぎてもたなくなってしまったのである。

 私が言いたいのは、漂流する「資本主義」に拘泥せずに、「資本主義は終わっている」ものとし、経済、社会の規範関係をすっかり別のものに変えることによって、新たな時代を構築すべきであるということである。

 マルクスによる定義から離れて、「資本主義」という言葉は、今や、物質か精神か、資本か労働か、持てる者か持たざる者かと分けたとき、いずれも前者にスポットライトを当てて組み立てられた概念となってしまっている。しかし錯綜する現代では、後者を無視して世の中を組み立てることができない時代になっているのだ。精神、労働、持たざる者を眼中に入れずに、経済を循環させることはできない時代――これが私たちの生きている時代なのだ。

 だとしたら、次のステップに踏み出す必要があるのではないだろうか。つまり、物質も精神も、資本も労働も、持てる者も持たざる者も、その他もろもろの事象を包摂する「器」を発見し、また、創造することを目指さなければならないのではないかと思う。

 ここまでで、一応「資本主義は終わっている」を論証したので、これからは、次のステップについて、若干の考察をしておきたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/04/21にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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