「バブル」でなく「先取り」という見方

前回引用させていただいたガルブレイズ『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』とベックマン『経済が崩壊するとき――その歴史から何を学び取れるか』という2冊の本に紹介されている歴史的事実は、まことにすさまじいばかりのドラマである。現在のわれわれからみれば、歴史上のドラマのように目に映るが、しかし同じような事件はその後も現実に起こり、私たちは、1980年代の日本における地価暴騰とその後の経済崩壊、現在進行中のサブプライムローンに端を発した米国発の金融崩壊などによって、忘れる暇もなく執拗に見せつけられている。

これらの一連の事件を見る限りは、確かにバブル経済の崩壊現象と捉えることができるかもしれない。この崩壊の渦にまきこまれて、多額の不良債権を抱え込んだ銀行、乗っ取られた会社、株や金融商品にあやつられて虎の子の財産をすってしまった人々……さまざまな被害者の歯ぎしりする音が聞こえてくるようである。

 マルクスも、このような現象について言及し、次のように指弾した。

 「収奪は、資本主義制度そのものの内部では、少数者による社会的所有の取得と して、対立的姿態をとって現れる。そして信用はこの少数者に対し、純粋な賭博師たる性格をますます与える。所有はここでは株式の形態で実在するから、その運動および移譲は取引所賭博の純粋な結果になるのであって、取引所賭博では小魚は鮫により、羊は取引所狼によって鵜呑みにされる。」(マルクス著・エンゲルス編・長谷部文雄訳『資本論第三部上』青木書店上製版・第四分冊・625頁)


なお、ケインズが、「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんらの害も与えないだろう。企業が投機の渦巻のなかの泡沫となると、事態は重大である。」と警告を発したことは前(第2回)に述べたとおりである。

投機取引の渦に入って、ほとんど壊滅的な打撃を受けた人がいる一方、ひと儲けしてご満悦の人もいるだろう。また、この投機取引の資金づくりのために銀行などの金融機関から多額の借金をした人や企業であれば、さらに大きな打撃を受けただろう。投機取引の渦に入ってから起こる一連の事件は、資本主義のシステムを操作し、トリックを使って、ひと仕事やりとげられてしまったものとされ、それは特殊な病理現象と見られるものと思われる。
こうしてみると、煎じつめて言えば、これはゼロサム・ゲームに過ぎないと思われるかもしれない。しかし、果たしてそうであろうか。ゼロサム・ゲームというのは、参加者それぞれの選択する行動が何であれ、各参加者の利得と損失の総和がゼロになるゲームである。すなわち、負けと勝ちとがちょうど等しくなるゲームであるから、カジノでは、勝った人間が手に入れただけのものを、敗者が失わざるを得ない。

したがって、投機取引がゼロサム・ゲームであるのならば、投機取引に参加さえしなければ、影響はさほど大きくないはずである。だからこそ、ガルブレイズは、「興奮したムードが市場に拡がったり、投機の見通しが楽観ムードに包まれるような時や、特別な先見の明に基づく独特の機会があるという主張がなされるような時には、良識あるすべての人は渦中に入らない方がよい。」(前出『バブルの物語』155頁)と忠告し、べックマンは、「(来るべき『崩壊』に対処するには、)まず第一に何よりも重要なルールは、何をするにしろシンプルに、ということである。」(前出『経済が崩壊するとき』387頁)と言っている。

しかし、投機の渦中に入らず、何をするにもシンプルに生活をしていれば、わが身を守ることができるのだろうか。ゲームに参加せずに傍観するだけにしておけば、ちょっと興奮するだけでツケがわが身に廻ってこないものなのだろうか。職と住を同時に失った派遣労働者日比谷公園派遣村に集まってきたり、大学・高校生の就職内定率が最低を記録したりするニュースに接すると、どうもそうではなさそうだと思わざるを得ない。

経済の疲弊は必ずしもすぐにやってくるとは限らない。しかも、そのツケは、とんでもないところに廻されてくる。つまり、ゲームに参加しなくても、投機という賭場にいなくても、すなわち、自分に何の責任がなくても、ツケを廻されてしまうのだ。とくに、弱いところに、気がつかないうちに、ときには突然、ときにはジワジワとやってくる。そこが問題なのだ。

私には、「バブル経済」という言葉では括りきれないもっと大きな影が、勝ちのない、負けのだけの独自の生態をもって、世の中の多くのところに触手を伸ばしてきていると感じている。

 ケインズは、「着実な流れに浮かぶ泡沫」と「投機の渦巻きのなかの泡沫」に分け、前者ならばなんらの害は与えないが、後者ならば事態は重大であると言うが、投機の渦巻きの中にあるものは「泡沫」=「バブル」でないという認識がないことについては、前(第2回)に述べたとおりである。しかしそれにしても、いったい前者と後者のどこに線を引くのだろうか。

 前者と後者は同じものが起こす現象に過ぎず、それは、「着実な流れに浮かぶ泡沫」程度のときはどこかに潜んでおとなしくしているだけであって、必ずいつかは、「投機の渦巻きのなかの泡沫」現象を起こす。先ほど投機の過熱について、「特殊な病理現象」と言ったが、それは何も「特殊な」ものではなく、病気が潜伏期間中か否かの違いだけなのだという見方もできると思う。

  それではいったい、それは何なのだろうか。

 それは、資本主義の属性、すなわち、「先取り」である。「先取り」については、これまで何度も述べたが、要するに、個人のレベルでも企業のレベルでも、国家のレベルでも、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうという経済現象を言う。「価値」という言葉が分かりにくいのであれば「富」という言葉に置き換えてもよい。あるいは、個人レベルであれば「報酬」、企業レベルであれば「利潤」、国家レベルであれば「税収」と言えば、いっそう分かりやすいであろう。

 「先取り」という概念を使って、資本主義の病理を究明しようと考えたのは、おそらく私が最初だと思うが、公正を期するために、「先取り」という言葉が使われている文献を引用しておく必要があると思う。マルクスは、「利子」に関して、次のように言っている。

 「総利潤すなわち利潤全体の現実的価値量が各個のばあいに平均的利潤からいか    に乖離しようとも、機能資本家に帰属する部分は利子によって規定されている。けだし利子は(特殊な法律上の契約を度外視すれば)一般的利子歩合によって固定されて、生産過程の開始以前、つまりその成果たる総利潤が獲得される以前に、先取りされるものとして前提されているからである。」(前出『資本論第三部上』529頁)

 マルクスは、そこから先、「先取り」という概念を使って資本主義の病理を解明する方法をとっていない。だからこそ、前述のとおり、「取引所賭博では小魚は鮫により、羊は取引所狼によって鵜呑みにされる」といういわば情緒的表現に留まっているのではないかと思われる。すなわち、マルクスの取引所賭博に対する罵倒は、それを論理的思考の枠外に追い出しているのではないだろうか。だから、それが見えたときが思考の終着点になる。その点では、ケインズも同じで、「一国の資本発展が賭博場の活動の副産物になった場合には、仕事はうまくいきそうにない」と言った地点で、この筋道の思考は止まったのだ、と私は考えている。

 しかし私は、この「先取り」こそ資本主義の本質的な属性であり、そこからさまざまな矛盾が噴き出ていると思っている。したがって、私の場合は、「取引所賭博」や「仕事は不首尾」の地点が出発点になる。なぜなら、そうでなければ、現実の経済とそこで起こっている問題の深層に迫ることができないからだ。  

 私が「先取り」という概念を使って資本主義経済の属性になっていることについて公表したのは、前(第2回)に述べたとおり、1969年だった。その後私は、著作や小説で度々「先取り」をテーマにものを書いていたが、「先取り」の概念とそれを思いついた経緯については、後にきちんと説明する予定である。その前に、「資本主義」の定義をし、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」と言えるのかということを、次回に概観しておきたいと思う。

 なお、私が「先取り」に関して書いたものに対し、書評で取り上げられたのは全部合わせてもほんの数回だったが、小説『デス』は1999年8月25日付日経金融新聞で「今月の一冊」という書評欄でとりあげていただいた。また、「先取り」という概念については、日本経済新聞の「法律広場」欄に『先取り経済の盲点』というタイトルでコラムを書いたことがあるので(2009年3月7日、14日、21日、28日付日経PLUS版)、今のところマイナーではあるが、世の中に全く出ていないというわけではない。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/27にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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