資本主義の定義と終焉の指標

前回に「先取り」という見方について述べたので、引き続いて「先取り」の概念とそれを思いついた経緯について論述したいところだが、その前に、「資本主義」という言葉の定義をしておきたいと思う。そして、この論考は、「資本主義は終わっている」という事実を論証するところに主眼があるので、「資本主義」の定義を見る機会に、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」と言えるのかということにも言及しておく必要があるだろう。したがって、今回は、資本主義の定義と終焉の指標について概観することにしたい。
資本主義の定義についてはいろいろな説があるが、ここでそれを並べることにそれほど意味があるとは思えない。なぜならば、この論考は、「先取り」を鍵にして「資本主義は終わっている」ということを論証する方法を採るので、これまで巷間に流布されている方法と異なる道筋を辿るからである。しかし、「資本主義」の定義を見ておくことはそれなりに意味があるので、一応文献に当たっておくことにする。そこで、やや長くなるが、『体系経済学辞典第6版』(東洋経済新報社)を引用させていただく。
  「資本主義という言葉は19世紀中頃からイギリスで用いられはじめたが、その
定義は必ずしも明確でなかった。これに明確な規定を与えたのはマルクスである。
マルクスによれば資本主義とは、一方で生産手段が少数の資本家の手に集中され、
他方に自分の労働力を売る以外に生活する手段をもたない多数の労働者階級が存在
するような生産様式をさす。この生産様式は次の諸点において、それ以前の生産様
式と異なっている。(1)商品生産が社会のすみずみまでいきわたり、労働力まで
が商品化されて、価値法則が貫徹していること、(2)労働者が身分制などの拘束
から解放されて自由となり、また生産手段をも失って「二重の意味において自由」
であること、(3)したがって労働者からの搾取は経済外的強制によらず、経済的
強制によって行なわれ、必要労働と余剰労働とが空間的に分離されていないこと、
(4)生産手段の私有制が完全に確立していること、である。」(同書86頁)
 このマルクスの定義は、今でも一部「なるほど」と思わせるところがあるが、総じて古色蒼然とした印象がすると同時に、いかにも対象が狭いと言わなければならないだろう。

 すでに、独占資本主義、金融資本主義、グローバル資本主義、マネー資本主義、強欲資本主義などと頭に形容詞がつくような資本主義をわれわれは経験しており、それが「資本主義」という言葉で語られている以上、それらを全部資本主義の範疇に入れなければならないと思われる。

 また、マルクスの定義が狭いと感じるのは、それが産業革命以後の大規模な工業生産だけを念頭に置いているからであろう。すなわち、この定義の中には、流通、サービス、金融、情報などの仕事が直接的には入っていない。

 一定の元手を使って生産をするだけでなく、物の売り買い、金の貸し借りなどは大昔からあったことだが、資本主義における流通、サービス、金融、情報などの仕事がそれより前の時代と異なるところは、市場を使って莫大な資金を集め、それこそ「社会のすみずみまでいきわたる」大規模なシステムを社会の中に組み込んでいるところであろう。したがって、「資本主義」を定義するのであれば、流通、サービス、金融、情報などの仕事も、その中に入れておく必要がある。

 ここまでくれば、「資本主義」とは、産業革命以後の社会のほぼ全体にゆきわたっている経済体制という意味で使われているといってよいであろう。

 「資本主義」という言葉をこのように定義し、このような意味で使われているときに、では、どういう状態になったら「資本主義は終わっている」ということになるのであろうか。

 これについてはさまざまなことが言われている。例えば、2008年秋アメリカ発の金融危機によって資本主義が終焉したと言う論者もいるし、いやその前に、多くの国が社会主義政策を導入したときにすでに資本主義ではなくなっているという論者もいる。しかし、表面に現れているそのような現象だけで資本主義の終焉を説くのは、いささか説得力に欠けるところがあると思われる。

 ところで、マルクスによれば、生産過剰による恐慌が引き金になって資本主義が崩壊すると言う。これは、マルクスの定義からすれば、ある意味で論理必然的に出てくる結論であるように思われるが、歴史的な事実によれば、恐慌が起こっても資本主義自体は崩壊しなかった。すなわち、生産過剰による恐慌によっては、資本主義は終焉しないのである。

 このことは、岩井克人教授が『貨幣論』(筑摩書房)で指摘しているところであり、私もその通りだと思う。その岩井教授は、ハイパー・インフレーションによる貨幣が崩壊したときをもって資本主義の終焉と考えていて、次のように述べている。

「ひとびとが貨幣から遁走していくハイパー・インフレーションとは、まさにこ
の貨幣の存立をめぐる因果の連鎖の円環がみずから崩壊をとげてゆく過程にほか
  ならないのである。」(同書196頁)

 そしてそのときこそが、「巨大な商品の集まり」としての資本主義社会の解体(Spaltung)にほかならないとされている。(同書197頁)

 この岩井教授の説によれば、まだ決定的なハイパー・インフレーションは起こっていないから、将来はともかく、現在のところ「資本主義は終わっている」とは言えないことになるのだろう。

 この見解については、「なるほどそうか」と納得するところがあるが、もう少し、位相を低い所に置いて「資本主義」を見た場合にはどうなるだろうか。「位相を低い所に置く」ということは、資本主義の基礎を見るということである。すなわち、資本主義経済における社会の規範関係は、次の3つの要素が基礎になっている。

 「(1)私的所有  富が商品であるということは、富に対する排他的な完全な支       配――すなわち、私的所有――の相互承認なくしては、存在し得ない。

  (2)契約  商品に対する排他的支配の相互承認という前提の下では、商品(私的所有)の交換は、交換当事者双方の合意なくしては、存在し得ない。この合意が契約である。

  (3)法的主体性  商品交換の過程においては、交換当事者は、私的所有及び契約をとおして、相互の独立主体性――すなわち法的主体性――を承認しあっている。」(川島武宜民法総則』有斐閣・2〜3頁)

 すなわち、私的所有、契約、法的主体性が資本主義の基礎であり、これが中学校の教科書にも書いてあるように、「身分から契約へ」という封建制度の時代から資本主義の時代への変化の「しるし」である。

 私は、「先取り」――すなわち、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうこと、
先取りをした段階では中身のない空っぽの価値――が、私的所有、契約、法的主体性
という資本主義の基礎を壊してしまったことによって、「資本主義は終わっている」
ことを論証しようと考えている。すなわち、後に詳しく論述するが、基礎が壊れれ
ば、基礎の上に建っている建物は倒壊する――ここに着眼するのである。
 歴史上、資本主義は2度の大きな挑戦を受けている。1度は、共産主義革命である。しかし、ソビエト連邦が崩壊し、中国が市場経済を導入して、この挑戦は退けた形になっている。もう1度は、ナチスによる全体主義国家社会主義体制)からの挑戦である。これも、ヒットラーの敗北により、資本主義は持ちこたえることができた。

 この2つの挑戦の見逃す事ができない特徴は、資本主義の基本的な要素である「私的所有」に手を突っ込んで否定し、国家が「契約」を規制・管理し、人権を侵害して「法的主体性」を無視したところにある。

 この2つの挑戦は退けることができたが、それでは資本主義は結局終わっていないということになるのだろうか。このことに関し、資本主義と社会主義とを対比するとともに、もう1つの「混合経済」という考え方について、次回に検討してみよう。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/03にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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