資本主義、社会主義、混合経済

前回(第8回)は資本主義について定義したが、その対極にある「社会主義」も見ておかなければならないだろう。もっとも、「社会主義とは何か」という議論をすればきりがないので、ここでは、辞書を引用することにしたい。すなわち、『大辞林』(三省堂)によれば、「社会主義」とは、――

 「資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を、私有財産制の廃止、生産手段および財産の共有・共同管理によって解消し、平等で調和のとれた社会を実現しようとする思想および運動。共産主義無政府主義社会民主主義などを含む広い概念。」である。

 しかし、ここで「広い概念」とあるように、多くは政策と結びつき、雇用政策、福祉政策などを指して、「社会主義政策」と呼ばれている。このことは、例えば私有財産の廃止などを念頭に置かなくても、「社会主義」という言葉が使われることを意味している。

 したがって、ぴったりと重なるわけではないが、雇用政策、福祉政策などに多額の財政出動をすれば、現象的には社会主義に近づくことになる。このことは、いきおい「大きな政府」を指向せざるを得なくなり、自由放任主義に価値を置く「小さな政府」指向論者からの非難の的になる。

 その象徴的な例は、今年の1月に行われたマサチューセッツ州における上院議員補欠選挙であろう。予想を覆して当選した共和党議員の支持者が高く掲げていたのは、「オバマ社会主義者だ!」というプラカードだった。まさかオバマ大統領が私有財産制の廃止までを考えているとは思われないが。

 ここで注意すべきことは、「社会主義」をどのように定義し、使用しようとも、あらかたの人は、資本主義か社会主義かしかないと考えていることである。あるいは、社会主義政策を取り入れた資本主義、資本主義経済を取り入れた社会主義という体制はあると考える人は多いだろうが、そのときに使われる概念は、「資本主義」と「社会主義」の2つだけである。

 したがって、そのような認識であれば、資本主義の次は社会主義であるという考えしか浮かんでこないことになる。そしてそれは、完全に社会主義に移行しない限り、資本主義の終焉はないという考えに結びつくだろう。

 しかし、果たしてそうであろうか。社会主義に完全に移行しなくても、資本主義の終焉を見ることはあるのではないだろうか。

  私は、完全に社会主義に移行しなくても資本主義の終焉があるという考えを持っており、したがって、「資本主義」と「社会主義」だけでなく、「他にもある」と思っている。しかし、そのことはこの論考の主題であるから、後に詳しく述べることにする。

 そこで言及しなければならないことは、サムエルソンの「混合経済」という概念である。彼は、「アメリカのような先進工業国の経済生活の研究を始めるに先立って、われわれは、近代混合経済の歴史と進化の過程に目を転じなければならない。」と言い、市場経済と指令経済を定義したうえで、次のように述べている。

  「まず、市場経済と指令経済について先に行った定義を想起されたい。市場メカニズムというのは、経済的組織の三つの中心的課題を解決するにあたり、個々の消費者と企業が市場を通じて相互に関連し合うところの経済的組織の一形態である。指令経済というのは、資源の配分が政府によって決定され、政府が個人や企業にたいし国の経済計画に従うよう指令するところの経済的組織の一形態である。今日では、これらの極端例のいずれもアメリカの経済体制の現実を描写していない。むしろ、アメリカの体制は混合経済であって、そこでは民間の機構と公共的機構の両方が経済面での統御にたずさわる。」(P.サムエルソン W.ノードハウス著、都留重人訳『サムエルソン経済学上[原書第13版]』岩波書店・37頁)

 サムエルソンは、ここではアメリカを念頭に置いているが、現在ではアメリカに限らず、多くの先進国の現実を描写していると言ってよいだろう。また、中国の現実を見れば、中国もまた混合経済を採用していると言えると思う。そればかりでなく、多くの発展途上国も混合経済だと言えると思われる。こうしてみると、今や「混合経済」は、世界中に普及している経済システムだと言ってよいだろう。

 なお、ここでは「市場経済」という言葉が使われているが、資本主義か社会主義かと分ける場合には、「資本主義的経済体制」という言葉に置き換えることが可能であろう。もっとも、ぴったりと一致するわけではないだろうが。同様に、「指令経済」という言葉は、「社会主義的経済体制」に重ねてもよいと思う。

 このように考えると、おおまかに言えば、現在は、資本主義と社会主義が混在する混合経済の体制であると言うことができる。私も、現在の表層を見る限りでは、なるほどそうであろうと思っている。

 ところで、資本主義と社会主義との混合経済という考えは、政策的には資本主義政策と社会主義政策とを、その時々の経済情勢に応じてバランスよく採用すればよいということになるだろう。これが好況のときには新自由主義的な理論がもてはやされ、財政出動を要請する不況のときにはケインジアンの理論が動員されることに結びついている。

 確かに、近代以降、世の中はだいたいそのように動いてきたし、今後もバランスさえ崩れなければ、この混合経済でうまくやってゆけるのではないかと思わせるところがある。

 では、混合経済であるから、「資本主義は終わっている」と言えるだろうか。この問に対してイエスと答える人は誰もいないであろう。なぜならば、シェアに大小の差があっても、混合経済の中には資本主義経済が多くの部分を占めているのだから。

 したがって、バランスを崩して社会主義に完全に移行しない限り、すなわち、バランスを保って混合経済を維持する限り、資本主義は終焉を迎えないということになる。

 しかし、ここに3つの問題がある。1つは、資本主義と社会主義は基本的に矛盾する体制である、ということである。資本主義は自由を重んじ、社会主義は平等を尊重する。この通常であれば矛盾する要請に対して、混合経済をうまく操縦してゆくことができるのだろうか。そこには絶えずせめぎ合いや葛藤が起こり、あちこちに亀裂が生ずるのではないだろうか。その例はいくらでも挙げることができるが、長くなるので先に進もう。

 もう1つは、いつまでもバランスを保つことができるだろうか、ということである。社会主義に完全に移行する前に、混合経済がバランスを崩して、ハイパー・インフレーションなどの混乱が起こることがないだろうか。果ては、戦争という大愚を犯すことがないだろうか。そんな馬鹿なことは起こらないと誰が保証することができるだろう? 人類はすでに何度もそれを経験しているのに。とは言え、狼が来ると騒いでいると誤解されるのはよくないので、この辺にしておこう。

 さらにもう1つの問題は、バランスを保って混合経済を維持する限り資本主義が終焉しないという考えは、私的所有が空洞になって、資本主義の基礎が崩壊しているという事実を見逃してしまうことである。そしてその結果、社会が壊滅する前に手を打つことができなくなる恐れがある。

 こうして見ると、「混合経済」という認識は、表層にあらわれている現象はともかくとして、社会を形作っている基礎のところまで視野に入れたときには、欠けたところがあると言わざるを得ない。

 しかし、資本主義の先に何があるのかという議論をする前に、「資本主義は終わっている」ということを論証しなければならない。私は、「先取り」という概念を使って論証したいと考えているが、次回からは、その概念とそれを思いついた経緯を述べることにしたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/10にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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