「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の1)

今回から5回にわたって、「先取り」という概念を思いついた経緯と「先取り」理論の内容を述べることにするが、タイトルは、〈「バブル」でなく「先取り」経済〉ということにしたい。なぜならば、ここで言いたいことは、世の中で「バブル経済」と言われていることは、実は「先取り経済」であり、そのことを明らかにすることが目的だからである。書物であれば、これからの5回で1つの章を構成するものだとお考えいただきたい。

 そこでまずは、なぜ「先取り」という概念を思いついたかというところから入って行くことにする。私事になって恐縮だが、「なぜ思いついたか」ということになると、どうしても私の経験を語らざるを得ないので、お許しをいただきたい。

 私は、1962年に大学を卒業して鉄鋼会社に就職した。2か月の実習期間を終えて、最初に配属されたのは本社監査部という部署だったが、勤務地は製鉄所の中にあった。

 ときはまさに高度経済成長のまっただ中にあった。そびえ立つ高炉からはさかんに黄色の煙があがり、長々と大きいストリップミルには真っ赤な鋼鉄が疾走していた。右も左も分からない新卒の私は、ひたすら高度成長の恩恵に浴しながら、昼間はそこそこに内部監査の仕事をこなし、夜は仲間と酒を飲んで巷を徘徊していた。

 しかし、あるときふと、この高度成長はいつまでも続かないのではないかという想念が私の頭の中に宿った。そして私は、その想念にこだわった。

 この巨大な製鉄所を動かし、毎日大量の銑鉄、鋼鉄を生産し、しかも成長をし続ける原動力は何なのだろうか。そこには、論理というか、仕組みというか、のっぴきならない原理のような何かがあるのではないだろうか、と私は考えた。それは、ひと言で言えば、資本主義の論理なのだろうが、もっと具体的な何かがあるのに違いないと思っていた。しかし、はじめのうちは深刻に思考を煮詰めていたわけではなく、高炉の煙を眺めながら漠然とした想念として育てていたに過ぎない。

 いつのことだったか思い出せないが、入社した年の夏の終わり頃だったと思う。「企業は、利益が生まれる前に、先に計上しているのではないだろうか」という考えが頭に浮かんだ。

 そこで私は、大手メーカーの株式配当率を調べてみた。すると、ほとんどの企業の配当率が、毎期同じであることが分かった。しかも、業界ごとに、鉄鋼は10%、化学は10%、造船は12%、電力は10%と、ほぼ一定であることが明らかになった。

 株式配当率は、その期の利益から割り出されてくるものであるから、いつも、どの企業も、業績が一定であることは、あり得ないことではないだろうか。それなのに、こんなに揃っているということは、先に株式配当率を決めておいて、後から何らかの方法で辻褄を合せているに違いない。つまり、剰余価値が生み出された後に分配関係が問題となるのではなくて、剰余すべき価値として先取りする経済体制に入っているのだ。これこそが、目の前の高度経済成長の原動力なのだ。

 そう気づくと、私は、大発見をしたような気持ちになった。どの程度の気持ちかというと、人から笑われるかもしれないが、ほんとうにそのとおりに思っていたのだから、この機会に言ってしまおう。

 「マルクスも、多分その他の経済学者も、誰も気づかなかったことに自分は気づいたのだ。これを畢生の仕事にしよう」と、考えたのである。

 そして、私の頭の中は、「先取り」という言葉にほぼ占有されてしまった。つまり、なぜ企業は利益を先取りするのか、「先取り」のパターンにどのようなものがあるか、「先取り」の影響はどこに出てくるかなどと、寝ても覚めても考えるはめになってしまったのである。いったん、「先取り」という仮説を立ててみると、さまざまな経済現象や社会現象がよく理解できるように思われた。

 しかし、冷静に考えれば、高度経済成長のまっただ中で、しかも基幹産業の鉄鋼会社の中で、そんなことを考えているのは矛盾以外の何ものでもない。そこで、私は、つぎのように考えた。すなわち――

 仮に、私の考えを形にまとめることがあっても、そのときは矛盾が大きくなってどうにも身動きができなくなるだろう。ほんとうにこれを畢生の仕事にしたいのならば、早いうちに職業を変えておくしかない。しかし、会社を辞めて「先取り」の研究をはじめたとしても、そんな人間は世の中から相手にされることはないだろう。そうだとすれば、まず食べてゆく方法を確保して、それからこの畢生の仕事にとりかかろう。それならば、法学部出身である以上、司法試験が一番手っ取り早い。

 そのように考えて、私は、会社の独身寮を出て、農家の離れに下宿し、司法試験に挑戦することにした。それは、その年の11月末日だった。満天の星の光が、見上げる私の身体に沁み込んできた。司法試験は、2回滑って、3度目にようやく合格した。そして、1966年に会社を辞めて司法研修所に入所した。

 司法修習生になるにあたって私が決意したことは、いよいよこれから「先取り」に取り掛かるぞ、ということだった。そこで、大学ノートに考えを書き留めておいた。そのメモのタイトルは、『663メモ』となっている。すなわち、1966年3月に書いたメモという意味であるが、長さは1行置きの大きな字で53頁。日付は1966年3月8日から10日までで、そのとき私は28歳だった。その中から、いくつかの部分を転記しておこう。

 「私が感じていたことは、経済が病理現象を呈して来るに従って、企業の利益 は貸借対照表からはじき出されてくる結果ではなくて、論理的にはそれが逆転してくるのではないかということである。即ち、企業の利益が、まず諸条件が勘案された上で算出され、そのあとで貸借対照表の数値を出すという論理過程をたどると同時に、その意味で貸借対照表が形式化いや形骸化されてくるのである。一口に粉飾決算といわれるものであるが、粉飾決算という言葉では言いつくせないような、経済の構造に直接的に密着した現象であり、ある種の経済発展をたどる過程で不可避的な現象として、これをとらえるべきであると思う。」

 「では、企業が真実の利益よりも多くの利益を計上するメリットはどこにあるのであろうか。それは、今後の需要が拡大していくであろうという企業経営者の適切な予想のうえに成り立っているのであろうか。本来のB/S(貸借対照表)ないしP/L(損益計算書)の論理操作をたどれば、結果的に算出された利益が、とりもなおさずその企業の現在の力を示すものであり、そこから拡大の可否が検討されていく筈である。しかし、利益算出の先行性ということは、ここに、予想ないし見込の要素が必然的に介入せざるを得ない。これは、1つの企業の社会的影響力が資本の集中に伴って無視出来なくなったという、現在の経済機構の実状からすれば、ある程度やむを得ないことかも知れない。従って、これは、B/SないしP/Lが現在では、そこにもり込めない要素があるために必然的に形式化し無力化されているのか、B/SないしP/Lにもり込んではならない要素をもり込んでいるのかどちらかである。或いは、その両方なのであろう。しかし、現在どの企業もB/SないしP/Lを用いて利益を算出している以上、ここに将来の需要を予想した上で、それに備えて実績以上の利益を計上することは、そもそも問題なのである。しかし、現状の経済機構から見れば、ある程度やむを得ないと考えれば、このようなことをすることが正当化される唯一の道は、将来の需要の予想が適切であり、これが一国家全体の経済から見て是認され、また、世界経済から見ても是認されるということ、その予想、見込に基づいて利益が先行的に計上されるということである。それでは、このような要請から企業が利益計上を先行させているのであろうか。私ははなはだ疑問であると思う。」

 ここで使っている「利益計上の先行性」という言葉は、トヨタ自動車をはじめとする大企業が軒並み赤字決算を発表している2009年2月頃の状況を見ると、違和感を持つ人が多いだろう。しかし、「利益計上の先行性」は、高度経済成長期における価値の「先取り」の典型的な形態なのであって、これが後に金融操作による価値の先取りなどに形態を変えてゆくのである。すなわち、価値の「先取り」という点では、後の金融操作によるものと根っこは同じである。また、形態としては主流の地位を他に譲るものの、「利益計上の先行性」による価値の先取りは現在でも行われている。例えば、2009年2月7日の朝日新聞は、インドのIT大手「サティヤム・コンピュータ・サービス」のラマリンガ・ラジュ会長が巨額の粉飾決算で逮捕されたことを報じている。その記事によれば、数年前から売り上げや利益を水増しし、帳簿上の現預金の94%にあたる504億㍓(約960億円)は架空であり、ムンバイ証券取引所株価指数が16%下落するなど、市場に動揺が広がっている。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/17にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
CNET Japan ブログネットワーク閉鎖に共ない移転しました。