「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の2)

前回から「先取り」という概念を思いついた経緯を述べることにしたが、今回は、前回に引き続いて、私が1966年にまとめた『663メモ』の続きを転記することからはじめたい。

  「利益計上の先行性を何故に、ここで問題として把えるのか。これは単に企業の会計、計 理をゆがめ、不当配当の問題を提起するということにとどまらない。現代のように、資本が集中し、一企業の経済全体に及ぼす影響力が増大すると、利益計上の先行性は、経済全体の不健全性をもたらすからである。とくに将来の需要を予想して過剰に利益を計上しておく場合には、この将来の需要が保障されない限り、企業の存続は不可能である。しかも、この企業は経済全体に及ぼす影響が大きいため、消滅させることは出来ない。そこで将来の需要の保障ということが至上命令となってくる。

  ここで、考えられることは、自然に需要が増大されない限り、色々の経済政策として打つ手が考えられる。まず、公共投資、海外への資本輸出、戦争ないし防衛費の増大、等々。しかし、ここで見落される問題が多く発生するのではないか。中小企業の整理統合、企業合理化に伴う失業者の増大等の問題である。また、公債発行という形式の租税の前借り、ここまでいくと、国家自体が一定の需要予想を見込んで、政策をたてていることになる。このことは、実際には、見込需要の確乎たる保障はないということになる。」

 発表することを予定していなかった走り書きのメモであるため、文章が整っていないところがあるが、これは米国3大自動車メーカーの破綻に対して公的資金を投入することの是非が問題になった2008年の話ではない。その40年以上も前の1966年に、まだ予兆すら見えなかった時期に書いた私のメモである。また、日本では、この年に戦後初めて赤字国債が発行されて均衡予算主義からの転換が行われたが、「公債発行という形式の前借り」という表現で、赤字国債発行の意味をここに位置付けていることに注意していただきたい。『663メモ』は、そのあと「利益計上の先行性」による影響に言及しているが、長くなるので今回は省略させていただく。

 『663メモ』を書いた翌月に、私は司法修習生になった。司法修習は、予想したよりもはるかに忙しく、「先取り」に着手することはなかなかできなかった。しかし私は、このことが絶えず気になっていたので、『663メモ』の内容の要旨を戯作風に書き改めて、『H氏語る――利益計上の先行性について――』という文章にまとめ、それを司法修習生の友人に読んでもらった。長さは400字詰め原稿用紙28枚、日付は1967年11月5日〜9日である。その友人は、その原稿用紙の余白にびっしりと意見・感想を書いてくれた。

 この『H氏語る』の中に「先取り」という概念がはっきり出てくるので、その部分を書き写しておこう。

  「利益計上の先行性が行われることは、計算上剰余価値の先取りが行われることに他ならない。丁度、これは、わが国の国債発行と呼応している。前者は、企業的規模で、(そして各企業の相互の関連性を考慮に入れればそれが高度化するに従って拡大された社会的規模で)、後者は国家的規模で、計算上で剰余価値の先取りを行っているのである。はじめは、計算上のものであっても、次第にそれが実体化したものと意識され、現実に、将来を拘束してくる。(将来を拘束する力があるから、現実のものでないと思う人は少ない。例えば、国債発行と財政の硬直化の関係を考えてみればわかる)。こうして、先取りされた剰余価値は、どんどん累積してくる。国民はこの累積された将来の剰余価値の重圧にあえぐようになる。」

 いかがでしょうか。これは、国債発行残高が637兆円(財投債を除く)に及ぼうとしている2010年2月現在に書いたものではない。43年前の1967年11月、すなわち戦後はじめて赤字国債が発行されてから1年程度の時点で書いたものである。

 そして、年が明けて1968年2月20日、あの事件が起こった。 あの事件?

 それは、在日朝鮮・韓国人の金(キム)嬉(ヒ)老(ロ)が、暴力団員から手形の支払いを迫られ、それを不当として暴力団員を射殺し、山奥の寸又峡温泉の旅館にたてこもって、民族差別問題を訴えた、金嬉老事件である。

 私は、北朝鮮平壌(ピョンヤン)で生まれた。子供のころは、大同江の河原で兵隊の演習を眺めたり、夫婦連れの乞食を1日中観察したり、10銭の紙飛行機の売れ行きを気にして物売りのおじさんにつき合ったりしながら、悠久の時間に包まれて過ごしていた。

 そして、突然終戦がやってきた。終戦直後のソ連軍の進駐などで天地がひっくりかえり、子供ながらに首をすくめて暮らしていた。そして、終戦の翌年の夏に、38度線を徒歩で越えて日本に帰ってきた。

 子供の私は、日本が朝鮮を侵略した歴史を知らなかった。そのことを知ったのは、引揚げて日本に帰ってきた後に、学校の授業で教えられてからである。日韓合併、強制連行などという言葉を聞くたびに、心が刻まれるようで落ち着かなかった。「ああ、そういうことだったのか。確かに思い当たることがある。」そう考えて、私は、幼いときの乏しい体験を検証した。そして、引揚げの道中の真夏の暑い日ざかりに、卵やキムチを売ってくれたオムニたちの顔を思い浮かべた。大同江の滔々とした流れ、皺を深く刻んだオムニの顔……。それを思うと、日本の朝鮮侵略という歴史は、私にとっては信じられないことであり、また慚愧に堪えないことであった。そして、いつかこの問題にきちんとこたえようと、漠然とした形ながらも深く心に刻み込んでおいた。

 そして、金嬉老暴力団員に向かってライフル銃の引金を引いた1968年2月20日、その日は、奇しくも私の30歳の誕生日だった。

 在日朝鮮人が、手形のもつれから暴力団員を殺し、民族差別問題をマスコミを通じて訴えている! これは、私にとっては、内奥にしまっておいた2つの懸案問題に、同時に突然スポットライトが当てられたようなものである。

 懸案問題の1つは、日本の朝鮮侵略という歴史をきちんと認識して、民族差別をなくす糸口を探究し、その実践に参加することである。もう1つは、「先取り」理論を公表することである。それがなぜ金嬉老事件と関連するのかといえば、融通手形の発行は個人レベルの「先取り」の形態に他ならないからである。「先取り」が殺人の原因になるという恐ろしさを人々に知ってほしい、と私は考えたのだ。

 当時の私は、2年間の司法修習生としての研修が終わりに近づき、最後の修了試験(これは二回試験と呼ばれている)がこれからはじまるというときであった。あと1か月余りでいよいよ弁護士になる。「とうとう30歳になった。弁護士になったら少しはいい仕事をしよう。そして、懸案の『先取り経済』に取り組もう。」と思っているところに、この金嬉老のニュースが飛び込んできた。私は、「これこそ自分の仕事だ」と咄嗟に判断した。そして、ただちに名乗りをあげ、弁護団に加わった。このようにして私は、二回試験の最中から弁護団や支援グループの会議に参加し、弁護士になったその日から、金嬉老の弁護人になった。

 余談になるが、この金嬉老事件の弁護人席には、弁護士の金判厳弁護人と作家の金達寿特別弁護人が、いわば南・北を代表する形で同席した。南・北の代表が公式の席に並び、共通の目的をもって仕事をすることは、戦後初めてのことであった。1991年9月17日、国連総会は、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の国連同時加盟を承認する歴史的決議を全会一致で採択したが、その23年前に、両金氏の屈託ない握手を見ていた私にとっては、この国連加盟のニュースには特別の感慨があった。

 金嬉老事件は、いろいろな点で歴史的な意味を担っていたが、私は、事件の根底にある「先取り」という経済現象の公表を、そのひとつとして加えようと、深く心に期していた。

 私は、1969年1月29日、金嬉老事件の公判の冒頭段階で意見陳述を行った。その内容は公判記録にあり、また印刷物もあるので、ここで初めて「先取り」理論を公表したことになる。そして、その意見陳述の一部に加筆し、1969年6月25日に発行された「金嬉老公判対策委員会ニュース第9号」に、『剰余価値の先取り体制に関する試論――金嬉老と手形との関係から』というタイトルで発表した。次回は、その『試論』に沿って論述をすすめたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/24にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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