「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の3)

前回に引き続いて、「先取り」という概念を思いついた経緯と「先取り」理論の内容を述べる。今回は、その3回目になる。

前回私は、1969年1月29日に行った金嬉老事件の意見陳述で初めて「先取り」理論を公表し、その意見陳述の一部に加筆して、1969年6月25日に発行された「金嬉老公判対策委員会ニュース第9号」に、『剰余価値の先取り体制に関する試論――金嬉老と手形との関係から』(以下、『試論』という)というタイトルで発表したと述べた。今回は、その『試論』に沿って論述を進めたい。

 前2回で、「先取り」という概念を思いついた経緯は述べたが、今回は、「先取り」という概念の説明をする。私は、この『試論』の中で、「先取り」理論をひと通り述べたので、『試論』をそのまま使えばよいことになるだろう。したがって、本来であればその全文をそのまま掲載する方がよいと思うが、全文を引用すると長くなり過ぎるので、ここではその要旨を述べる形にしたい。しかし、要旨というものの、「先取り」理論の原型を生かすために、可能な限り『試論』の文章を引用することにする。なお、『試論』は、私が31歳のときに書いたものであって、41年後の今読み返してみると、われながら生硬な感じがする。後に述べるように、「先取り」に関しては、その後に著作物を書いてきたので、後の方の著作物を詳しく紹介した方がよいのかもしれないが、そこに至るまでのプロセスを省略するわけにもゆかず、また「先取り」理論の基本的骨組みはこの『試論』で明かにしているので、まずは『試論』の主要部分を引用させていただくことにする。

 『試論』は、複数の節に分かれており、各節ごとにタイトルがついているが、冒頭の部分にはタイトルがなく、私の問題意識などが次のように書かれている。

  「金嬉老は債権取立てを不当として暴力団員の曽我を殺したとされている。私 は、この金嬉老の殺人の動機に強烈な関心を覚える。なぜ曽我は一枚の手形を持って金嬉老を追いつめたのか。この問に答えるためには、暴力団員の手に渡るような手形を流通させている経済体制 ――それは高度に歴史的である――を解明しなければならない。私は意見陳述において、起訴状にある通りまさに曽我による手形取立てを不当とみなしたことを動機として認め、手形とはそもそも何か、それがわが国の経済体制の中でどのような役割を果しているのか、そしてこのような手形を流通させている経済体制はどのような論理をもっているのか、 ということを考察し、金嬉老の行為の真の原因は何か、ということを私なりの視点から追求したつもりである。私は、ここであらためて私の意見陳述の根底にあつた問題意識を整理し、その骨子を述べておきたいと思う。

私は、下部構造を変えることなくして変革はあり得ないと考えている。「やはり下部構造だ」というのが、多くの人々とともに私の論理の出発点である。では現在の歴史的時点に立ったとき、この下部構造をどのように認識すべきであろうか。この点に対する私の考えが、この試論である。

  もとよりこの試論は、このような厖大な問題に十分答え得るほど体系化できていない。従って、多くは仮説的発言であり、全く骨組だけの試論であるが、できるだけ論点は出してみたいと思う。」  誤解のないように言っておくが、「下部構造」などという言葉を使うと、マルキストかと思われるかも知れない。しかし、私はマルキストではない。マルクスの用語を借りただけである。ここでいう「下部構造」とは、「ヒトが食べてゆくための経済構造」という意味である。しかし、変革を語るのであれば経済構造を無視することはできないという考えは、現在も『試論』を書いた当時も同じである。

 さて、『試論』を続けよう。まず、「現在の経済を支配している基本的論理は何か」というタイトルの一節がある。

  「現在の経済はどのような論理に支配されているか、即ち現在の体制はどのような論理にささえられているか、という、いわば結論を導き出すような問に、まず答えておきたいと思う。ここで現在の経済という場合、その場を一応限定する意味で、わが国の高度成長以後の経済を念頭に置いて論ずることにする(どの程度まで普遍化できるかは大きな問題であることを指摘したうえで)。

  多くの人々はこの問に対し、資本家が労働者から労働を搾取した成果である剰余価値を取得し、それが高度化して、国家機関が独占体に従属させられることを特徴とする国家独占主義の段階に達していると説くであろう。

  しかし私は、その段階をも既に通り過ぎて(或いは少なくとも同時に)、企業ないし国家が、労働によって生み出すべき価値の相当部分を、 剰余すべき価値として先取りする経済体制に入っていると認識する。即ち、ここでは価値が生み出された後、その分配関係が本質的矛盾となるのではなくて、生み出される前に先取りされた価値が、生み出された後にいかにして剰余価値として収集し、埋めつくされるかが、本質的矛盾となるのである。

  私は、このような経済体制を、剰余価値の先取り体制と呼ぶことにする。」

 ここで書かれていることが、私の「先取り」理論の骨子である。なお、ここでも「剰余価値」というマルクスの言葉を借りたので、マルキストであるような印象を受けるだろうが、誤解のないようにしていただきたい。ただ、ここで引用した部分は、労働価値説に引っ張られている印象が強いので、後に「剰余価値」という言葉を改め、単に「価値」ということにした。

 すなわち、「価値が生み出された後、その分配関係が本質的矛盾になるのではなくて、生み出される前に先取りされた価値が、後にいかにして収集し、埋めつくされるかが本質的矛盾となるのである」というところが核心であって、この「本質的矛盾」の捉え方で、はっきりマルクスと別れるのである。また、「先取り」を「バブル」と見ないことによって、他の経済学者との違いを明確にしたつもりである。

 さて、次の節は、「剩余価値の先取りはどのような形で行なわれるか」というタイトルになっている。ここでは、「先取り」の形態の代表的なものとして、企業の利益計上の先行性と政府の国債発行について述べているが、このことについては前々回と前回に述べたので、ここでは繰り返さない。

 その次の節のタイトルは、「先行的利益計上の無責任性」となっており、「先取り」の特徴として「無責任性」をあげ、次のように述べている。

  「個々の企業が無政府的に利益計上の先行をはかるために、経済全体のあるべき姿と、個々の企業の集合の現実の姿とは、およそかけ離れたものとなるが(例えば、真の需要とつくられる需要との関係)、そのことについて責任の所在が明らかでなく、従って責任がとられないということである。」

 なお、前々回に述べたように、ここで「先行的利益計上」とか「利益計上の先行」とかという言葉に対して違和感を持つ人が多いだろう。しかし、利益が生み出される前に計上するということは、高度経済成長期における価値の「先取り」の典型的な形態なのであって、これが後に地価の暴騰や金融操作などによる「先取り」に形態を変えてゆくのである。

 さらに『試論』の次の節は、「先行的利益計上の拘束力」となっている。そして、この節は、次のような文章からはじまる。

  「ところで、先行的に計上された利益は、はじめは計算上のものであっても、次第にそれが実体であると意識され、現実に将来の政策を拘束し、従って人間の諸行動を拘束するようになる。 国債発行が財政を硬直化させるのは、この拘束力によるものである。

  ここでは、企業とくに経済全体に影響力のある巨大企業の利益計上の先行性がもたらす効果について、考えてみたいと思う。私は、先行的利益計上の拘束力と呼ぶ効果を、問題として提示する。即ち、先行的利益計上の拘束力とは、前以て計上された利益に合わせるために、換言すれば、利益計上の先行性を正当化するために、経済、政治、社会を動かそうとする力が働き、この力が、後の経済、政治、社会ひいては人間の諸行動を拘束することになる、その力をいう。

  ある時は直接間接に国家権力の協力を得て価格協定が結ばれたり、 或いは大企業が合併したり、又は消費ブームをあおって需要を起したり、こうしたありとあらゆる経済内的、外的の手段がつくされて、先行的に計上された利益を理めようとするのである。」

 その後、労働、消費などにも言及するが、長くなるので省略する。なお、この節の結びは次のようになっているが、これを書いた当時の企業による代表的な「先取り」である「利益計上の先行性」の他に、将来の過剰な収入を予測して業務を拡張することやその後の地価暴騰やサブプライムローンなどの金融商品による「先取り」を加えれば、現在でも通用する論理であると思われる。

   「このように考えると、 利益計上の先行性は、 人々の行動を強く制約していることが判明する。 そして、利益計上の先行性、国債の発行等から、高度成長以後の経済は、剰余価値の先取りが構造化し、その効果として、人々の諸行動が将来にわたって拘束されているのであると把えることができると思う。」

 その次の節のタイトルは、「剩余価値の先取り体制をもたらした原因」である。ここでは、私自身の研究不足をお詫びしたうえで、原因を究明するときに見落してはならない点として、次のことを指摘している。

  「この問題は究極のところ人間と自然の関係の問題であるということである。人間の生活は、外界的自然に対する何らかの支配によって可能であり、外界的自然に対する人間の支配の仕方は、人間の歴史的発展の段階に応じて異なっている。そして、資本主義経済の発展に伴い、物自体の支配関係から信用を媒介にして債権関係が分離してきたが、現在は、媒介機能を担うべき信用が観念化、抽象化され、実体の有無にかかわらず信用有りとして、大量で計量不能な取引きが行なわれるようになった。即ち、外界的自然を未だ支配していないうちに、観念化された虚数の信用を媒介として取引きをすることが可能となり、しかもその虚数の信用なしでは経済循環が行なわれないほどになった。ここに、剰余価値の先取り体制をもたらした原因の重要な部分があると私は考える。」

  「若し私の仮説が正しいとすれば、剰余価値の先取り体制のもとでは、所有の形態に変化が見られるのではないかと思われる。即ち、所有が人間の外界的自然の支配の歴史的な形態であるとすれば、個々の商品が私的所有の対象となる以前に、外界的自然を企業ないし国家が支配しているという観念が先行し、しかもその支配の観念が、複雑に折り重なってくる傾向があらわれるといえるのではないであろうか。このことは、所有を法的にどう論理構成するかという問題とは別である。法的な論理構成は、むしろあとから追いかけるものであるが、その難しさは、観念的で、しかも重量的な外界的自然支配が、前以て行なわれていることに由来するのである。 いずれにせよ、所有権の絶対性を前提とする近代的所有制度がどの程度妥当しているか、ということを剰余価値の先取り体制との関係で研究する必要がある。」

 ここに、「所有の形態の変化」という言葉が出てくるが、今思い返してみると、資本主義の終焉をすでに予感していたと言うことはできるだろう。しかし、正直なところ、このときはまだ、「資本主義は終わっている」というはっきりした意識は、私の中になかった。それよりも、ここに書いたように、資本主義の基礎を構成している「私的所有」が壊れてしまったのか否かを、研究してみようという気持が強かったのである。

 そのあと『試論』は、「剰余価値の先取り体制下の人間」、「金嬉老と手形の関係」という節に移るが、今回は長くなり過ぎたので、省略する。ただ、最後の「今後の間題」という短い節だけは、全文引用しておく必要があるだろう。

  「私は、私の問題意識を以上のように整理してみて、あらためて自分の思考の出発点に立ったような気持がする。でき得れば、これを体系的に考えぬいてみたいし、またここから国家や文明についても考えてみたい。

   しかし、それにしても何をなすべきであろうか。即ち、いかにして剰余価値の先取り体制の桎梏から自己を解放すべきであろうか。 決定的に運動論が欠如していることに果てしない不安を覚える。

   いずれも、今後の問題として自らに課しておくことにする。とりあえず、不完全なままの、このような試論を提示して、 批判をうけたいと思う。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/03にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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