続々・なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか

前回前々回に、なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか、その理由について、第1から第4までを述べた。今回は私なりに思いついた5つの解答のうちの第5の理由について述べる。

すなわちそれは、「資本主義は終わっている」と薄々気づいていても、資本主義の次にくる時代の名称がないから、明確に認識できないのではないだろうか、ということである。

つまり、「資本主義の時代が終わって今や○○主義の時代だ」と言えるような名称があれば別であるが、まだ○○に該当する言葉がない。あちこちでいろいろな言葉が使われているが、「資本主義の時代」と対等に渡り合えるような言葉は存在しないと言ってよいだろう。少なくとも、私は知らないし、一般のコンセンサスを獲得したような言葉はまだないと思われる。

しかし、資本主義が相当変質していることについては、広く認識されている。これは確かであって、変質の内容や時代の趨勢を反映して、独占資本主義、金融資本主義、グローバル資本主義、マネー資本主義はては強欲資本主義などと、形容詞を頭につけて語られることは多い。しかし、いくら形容詞をつけても、うしろに「資本主義」という言葉がくれば、この時代を言い尽くしたことにはならないと思う。

このことを少し考えてみよう。

後に詳しく述べるが、資本主義経済における社会の規範関係は、私的所有、契約、法的主体性の3つの要素が基礎となっている(川島武宜民法総則』2〜4頁)。すなわち、資本主義の最も基本的なルールは、ひとりひとりの人間が領主の封建的支配から脱して法的に主体性を持ち、その主体性を持った個々人が商品などの物を所有することが保障され、自由に契約、すなわち取引をすることが認められることであって、資本主義は、この私的所有、契約、法的主体性の基礎のうえに成り立っているのである。

 ここで、私的所有に的を絞るとすると、おおまかに言えば、生産、金融、流通までは私的所有の対象になるから、これらは資本主義の射程内に入ると言ってよいだろう。しかし今や、私的所有の対象とならないところに大きな問題が起こっている。もとより、その射程内に入る問題の中でも「資本主義は終わっている」という現象があらわれており、そのことこそが本稿の主要なテーマなので後に詳しく述べるが、それはさて措いて、ここでは別の角度から分かりやすい例を1つ挙げておこう。

 この12月7日にデンマークコペンハーゲンで開幕した国連気候変動枠組み条約締結会議(COP15)は、地球温暖化という人類が直面する脅威に対して、どのようにして温室効果ガスの排出量を削減するかという問題がテーマになっている。ここで問題になっている温室効果ガスは、生産過程などで排出されるものではあるが、私的所有の対象にならない。つまり、温室効果ガスが誰のものかということは意識にさえのぼっていないように思われる(資本主義では、常に誰のものかが問題になる)。また、途上国への資金援助策が会議の焦点になったが、この資金援助は、拠出する主体、方法はもとより、対価、報酬を目的とする資本主義の経済循環とは別のものになるはずである。

 すなわち、120近くの国・地域の首脳が集合し、190に及ぶ国・地域が取り組むべきこの時代の愁眉の大問題が――それはまさしく経済問題でもあるにもかかわらず――資本主義の射程の外に出てしまっているのである。

 このことは、「資本主義」という言葉では、この時代を語ることができなくなっているということではないだろうか。すなわち、今現在のこの時代を語るにしては、

 「資本主義」では器が小さすぎる

のである。

 そこで、「資本主義の時代」に代わる「○○主義の時代」と言うことができればよいのだが、ここで見落とせないのは、ドラッカーのポスト資本主義という認識であろう。彼は、「先進国は、社会としては、すでにポスト資本主義社会に移行している」と言い、知識社会への移行を説いているが(ドラッカー著・上田淳生訳『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド社・6頁〜11頁)、もう少し経済を包括的に取り込んだ名称が欲しいような気がする。

 後世の歴史家は何と名づけるか知らないが、戦国時代の次は封建時代、封建制度の時代の次は資本主義の時代というように、資本主義の時代の次の○○主義の時代というふうに語られる時代にすでに入っているのではないだろうか。

 だとすれば、○○に該当するところに単語を入れて、この時代、そしてこれから先少なくとも70年間ぐらいもつようなネーミングをしておく必要があると思う。そして、その時代に対する名称を人々が共有することができれば、今現在がどんな時代なのか、これから先に何をすべきか、ということが見えてくると思われる。

 私は、仮にネーミングするとすれば、○○に該当する言葉として、「共存」という単語を充てたい。これは、何だかんだと言っても現実に地球上に人類が生活し、さまざまな仕組みをつくって共存している事実に着目したものであるが、率直のところ、これからうまく共存して生きてゆこうではないかという願いもこもっている。

 「共存」と似ている言葉に「共生」という言葉があり、すでに「共生」に関する多くの著作がある(例えば、内橋克人『共生経済が始まる 世界恐慌を生き抜く道』(朝日新聞社)。「共生」という言葉には魅力があり、私も「共生」でよいのではないかと考えてみたが、のちに述べるように、「共生」と「共存」では言葉のうえで微妙な相違がある。私がこの論考で述べる内容に関する限り「共存」の方がよりピッタリするので、ここでは、仮に○○に「共存」を入れて、論考を進めたいと思う。

 誤解のないように言っておくが、「共存主義」というネーミングから分かるように、私は、資本主義的生産方式を否定しているわけではない。まして、資本主義の基礎をなしている「自由」を否定しているわけではない。「自由」の意味は多義的であり、それをどのように捉えるかは難しい問題であるが、そのことはともかくとして、私は、責任を持って何かをするときに束縛がないという本来の意味の「自由」は、最も尊重すべき人間の価値だと思っている。

 そこで、一応

 資本主義の時代はすでに終わっている。今や、共存主義の時代である

と言っておこう。しかし、「共存」よりよいネーミングがあれば、私としては、「共存」という言葉にこだわるつもりはない。

 以上が、「なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか」という問に対する私なりの解答である。

 ここまでが序章であるが、これからは、「資本主義が終わっている」ことを詳しく論証し、それから先に何が見えてくるかを考察したいと思っている。そこで次回は、これまでの経済学の流れをおおまかに振り返ることから取りかかることにする。(廣田尚久)

※本エントリは2009/12/23にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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