続・なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか

私は『資本主義は終わっている』というテーマについて論じようとしているのであるから、この論考が短く終わってしまうことはない。おそらく20回を超える連載になるだろう。そして、前回と今回と次回の3回は、その序章にあたる。

今回は、前回に引き続いて、「なぜ資本主義が終わっていると認識されていないのか」という問に対する解答(理由)を述べることにする。前回は、第1、第2の理由を述べたので、今回は、第3の理由から。

最近の金融崩壊を見て、資本主義が「危機に瀕している」、あるいは「崩壊の恐れがある」という認識はあっても、「終わっている」とまでは認識されていない。つまり、「資本主義は終わっている? まさか!」と思われているのである。

すなわち、圧倒的多数の人は、少し長い時間がかかっても、この金融危機さえ乗り越えれば、資本主義は生き続けることができると、あるいは意識して、あるいは漠然と考えているのではないだろうか。そして、アメリカ金融帝国は終焉しても、まだ資本主義自体は終わっていないのだから、たとえば新興国中産階級などをターゲットにして市場を掘り起こせば、資本主義は息を吹き返すことができるという言説などに接すると、ホッとした気持ちになる。

しかし、企業の倒産が相次ぎ、街に職を失った人が溢れる現状を目の当たりにしたとき、資本主義が息を吹き返すことに希望を託してよいのだろうか。また、新興国中産階級に目をつけるとしても、やはり同じことが繰り返されるだけではないだろうか。ここはやはり、「資本主義は終わっている」と認識し、冷静にものごとを判断する方がよいと思う。そのことは、決してオーバーな表現ではないし、また過激な考えでもない。

第4に、資本主義が終わっていることを論証する的確な言葉を、人々が使っていないことがあげられる。

1990年代日本の土地暴騰とその崩壊や2008年アメリカ発の世界金融危機に対して使われる言葉は、「バブルの崩壊」である。しかし、「バブル」という言葉は、現象を説明するためにも、分析するためにも、不十分、不適格である。そればかりでなく、これから先の対策を考えるときにも、「バブル」という言葉は役に立たない。

やや大袈裟な表現になるが、私は、こういうときに「バブル」という言葉がさかんに使われることが、経済、社会に対する認識を誤らせ、ひいては人々を不幸にしていると考えている。

ところで、「バブル」という言葉を最初に使ったのは、私の知る限りケインズであるが、彼は、「投機家は、企業の着実な流れに浮かぶ泡沫としてならば、なんの害も与えないであろう。企業が投機の渦巻きのなかの泡沫となると、事態は重大である。一国の資本発展が賭博場の活動の副産物となった場合には、仕事はうまくいきそうにない。」と言っている(ケインズ著・塩野谷祐一訳『雇用・利子および貨幣の一般理論東洋経済新報社・157頁)。

ケインズはここで、「企業の着実な流れに浮かぶ泡沫」と「投機の渦巻きのなかの泡沫」とを分けているが、言葉としては「泡沫」つまり「バブル」という同じものを使っている。すなわち、投機の渦巻きの中にあるものは、もはや「泡沫」=「バブル」ではないという認識がないのである。だからこそ、ケインズ論議は、「仕事はうまくいきそうにない」というところで止まっていて、先に進まないのだ。

しかし、ケインズが警告しているように、問題なのは、「投機の渦巻きのなかの『泡沫』」である。したがって、すべての論議はここからスタートしなければならない。そして、ここから先にたくさんの論議をしなければならないのである。だとすれば、「泡沫」すなわち「バブル」という言葉は、他の言葉に置き換えなければならない。

したがって、私は、「バブル」という言葉は使わない---では、「バブル」という言葉を使わないで、どんな言葉を使っているのか?

私が使っている言葉は、

「先取り」

である。つまり、「バブル」でなく「先取り」がキーワード。

「先取り」の概念については後に詳しく述べるが、要するに個人のレベルでも、企業のレベルでも、国家のレベルでも、「価値」を生み出す前に先に取ってしまうという経済現象をいう。

ここで、「価値」という言葉が分かりにくいのであれば「富」という言葉に置き換えてもよい。あるいは、個人レベルであれば「報酬」、企業レベルであれば「利潤」、国家レベルであれば「税収」という言葉に置き換えるならば、いっそう分かりやすいだろう。つまり、先取りをした段階では中身のない空っぽの「価値」、すなわち、「価値」とも言えない空虚なもの。これを私は「虚の価値」と呼んでいるが、この「虚の価値」が肥大化して、「資本主義」を「資本主義でないもの」にしてしまったのである。私は、このことをきちんと論証しておきたいと思っている。

私は、2008年の世界金融危機をみてから「先取り」という概念を思いついたのではない。それよりずっと前から「先取り」という概念を思いつき、経済現象を分析するときに使っていた。

では、何時から使っていたのか?

ここは序章であるからいちいちタイトルは掲げないが、私の頭に宿ったのは1962年、大学ノートにきちんと書いておいたのが1966年、ある刑事事件の弁護人として意見陳述の中で述べ印刷物に発表したのが1969年、単行本にしたのが1991年、小説三部作のテーマとして取り上げたのが1996年〜1999年、「先取り」を主要テーマに小説を書いたのが1999年である。

これだけ長く「先取り」という分析道具を使って経済現象をみてきた結果、「資本主義は終わっている」という姿が見えてきたのである。

その軌跡と「先取り」理論の内容については後に述べるが、私は、「先取り」という概念を道具にすることによってはじめて、現在起こっている経済現象、そしてそれに伴って起こるもろもろの社会現象を、的確に説明し、分析し、将来を見通すことができると考えている。

つまり、「バブル」という言葉では、何もできないのである。こんな道具を使っているから、「資本主義は終わっている」という認識に到達できないのだ、と私は思っている。(廣田尚久)

※本エントリは2009/12/16にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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