新自由主義に対する批判について

世界的な金融崩壊を目の当たりにしたとき、いったいこれまでの経済学は何をしていたのか、という疑問が湧いてくる。2009年1月31日付け朝日新聞の「けいざいノート」欄の『金融危機が与えた宿題』というタイトルの論説は、同様の疑問を述べたうえで、次のような言葉で結ばれている。

「貨幣」の問題を中心に据えるケインズ経済学と現在の標準的マクロ経済学との間の二者択一ではない、「第三の道」が見えてくる。(経済産業研究所上席研究員小林慶一郎)

 この論説の中では、ケインズ経済学と現在の標準的マクロ経済学の双方とも、今回の世界的な金融危機を扱うだけの能力がないと指摘されているのであるが、その点について、若干の考察をしておきたい。

1929年のニューヨーク株式市場の大暴落から始まる大恐慌に対して、F・ルーズベルト大統領が採用したニューディール政策財政出動を促した。そして、そのことが恐慌克服に繋がったと言われている。もっとも、この恐慌は、ニューディール政策によって克服されたのでなく、第2次世界大戦にまで持ち越されたのだとも言われているが、それはともかくとして、この政策はケインジアンの理論と合致するものであったことは事実であろう。

しかし、財政政策・金融政策などの政府による政策介入の必要性を説くケインジアン流の経済政策は、景気過熱によるインフレ、公共事業や福祉政策の肥大化という顕著な現象をもたらし、1960年代になると、ケインジアン流の経済政策が財政赤字をもたらす元凶のように見られて風当たりが強くなり、やがて新自由主義の思想に主流の地位を譲ることになった。

こうして2008年の金融崩壊直前までは、小さな政府、市場メカニズム、自己責任を核に据える新自由主義的なマクロ経済学が主流の座を占めていた。この新自由主義の思想は、イギリスにサッチャー首相、アメリカにレーガン大統領が登場して、政策として実施された。そして、日本でも歴代政権がこの政策を追従していたが、そのことについては長々と解説する必要はないだろう。

ところで、この新自由主義の思想の根幹は、「金融市場のさまざまな変数は均衡値に向かって収斂する傾向にある」というパラダイム(理論的枠組)である。つまり、簡単にいえば、市場でさまざまなことが起こっても、やがて均衡値に達して落ち着くから、自由放任が一番よいのだという考え方である。

しかし、自由放任にしておけば、ほんとうに均衡値に達するのだろうか。また、均衡値に達するか否かにかかわらず、自由放任にしておくプロセスの中で、あるいは結果において、何か問題が起こらないものなのだろうか。

まず、自由放任にしておけばやがて均衡に達するという点であるが、これはまったく幻想に過ぎない。市場はときどき、暴走して手がつけられなくなる。後に述べるように、これは人類が何度も煮え湯を飲まされた経験則である。

20世紀最大の投資家といわれているJ・ソロスも、この経済学上のパラダイムは偽りでしかなく、この誤ったパラダイムを基盤にして国際金融システムが築かれたことこそが、現在の世界経済危機の主たる原因だ、と言っている(ジョージ・ソロス著・徳川家広訳・松藤民輔解説『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』講談社・21頁)。

すなわち、市場はやがて均衡値に達するというパラダイムは、パラダイムだけに留まっていない。そのようなパラダイム金科玉条にして、さまざまな仕組みやシステムや制度がつくりあげられる。そのことがパラダイムの誤りを単なる誤りに留めておかずに、誤りを拡大化させてしまうのである。

例えば、アメリカがつくった国際金融システムは、世界中に自分たちに都合のよい壮大な仕組みの網を張り巡らし、サブプライムローンを梃子にして、膨大な「先取り」をしてしまった。

「先取り」?――前(第2回)に述べたように、「先取り」とは、「価値」を生み出す前に先に取ってしまう経済現象であるが、「価値」という言葉が分かりにくいのであれば「富」という言葉に置き換えてもよい。サブプライムローンの例で言えば、個人レベルで「将来の収入」を先取りし、企業レベルで「将来の利益」を先取りしたと言えば分かりやすいだろう。つまり、先取りをした段階では中身のない空っぽの「価値」、すなわち、「価値」とも言えない空虚なもので、これを私は「虚の価値」と呼んでいるが、この「先取り」された虚の価値があちこちに潜り込んで、企業の活動や人々の生活を破壊したのである。その仕組みについては後に述べることにしたい。

自由放任を旗印にした新自由主義パラダイムを基盤にして経済や政策が動かされていた結果、どのような問題が起こったのだろうか。

この点については、もはや顕著な結論が出ているので、詳しく説明をするまでもなく、項目だけを列挙することで足りるだろう。

まず、景気の悪化、生産規模の縮小、企業倒産の増加。そして、株や金融商品の暴落による損失の発生、個人破産。見渡せば、貧富の差、格差の拡大、中間層の消失。さらに、派遣切り、人員削減、失業者の増加。環境破壊。犯罪の増加、治安の悪化。

繰り返すことになるが、これらの経済現象とそれが引き起こした社会現象は、「先取り」という概念を使って分析すると筋道が見えてくる。すなわち、「バブル」という言葉では説明がつかないのである。

「先取り」という概念は、今のところ私だけが使っている分析道具だが、新自由主義が横行していたときにも、個人レベル、企業レベル、国家レベルの「先取り」が盛んに行われていたことは、誰でもすぐに思い当たるであろう。しかし、前にも見たように、新自由主義が隆盛なときには、サブプライムローンに代表されるような企業レベルの「先取り」が目立った動きをして、経済的、社会的ダメージを与えるのである。

私が経済的、社会的ダメージを受けた結果の悲惨な状況をいちいち取り上げて論ずるとしたら、それは読む人の情緒に訴える力にはなるだろうが、しかし、それだけでは「資本主義が終わっている」という論証をしたことにならないだろう。この論考は、「資本主義は終わっている」という事実を論証することを目的にしているのであって、「資本主義は終わるべきである」と主張するものではない。しかし、「資本主義は終わるべきである」という観点から現実を認識する方法はあり得るのであって、その方が強いインパクトを与えることは確かだろう。しかも、それが映像であるならば、訴える力はいっそう大きくなる。その意味で、マイケル・ムーア監督の映画『キャピタリズム マネーは踊る』を鑑賞することをお勧めしたい。

ともあれ、新自由主義がもたらした結末については、新自由主義から転向した人も交え、多くの論者が指弾するところであって、今や新自由主義は、集中砲火を浴びている状態であると言えよう。

もとより、このような状況に至るまでには、うまい汁を飲んだ人がいるに違いない。その人たちはまた、集めた金を投資して、世界の経済を動かしたという自負を持っているかも知れない。確かにこの間に、新興国の経済は高成長を続け、人々の生活レベルも向上した。そして、経済の中枢にいない人々や企業であっても、それなりのおこぼれにあずかった。だが、それにしても、支払った代償、これから支払うべき代償は大き過ぎると言わなければならないだろう。

しかし、「金融市場のさまざまな変数は均衡値に向かって収斂する傾向がある」という経済学上のパラダイムが誤りであること、そしてこのパラダイムのもとで実施されたさまざまな政策のために目も当てられない結果になったことは、誰の目から見ても明らかだとしても、そのことを指摘するだけではそれだけのことになってしまう。

 すなわち、このようなパラダイムが横行した真の原因をつきとめて、根絶しておかなければならない。

 そのことを突き詰めて考えれば、強欲、利他的な考え方の欠如等、原因はモラルの問題に見えてくる。そして実際に、モラルの問題とする論調が少なからず見受けられる。しかし、それも重要な要素だと思うが、このパラダイムは、基本的には経済の問題である。したがって、モラルを問題にする前に、経済現象の中に答を突き止めることが必要なのではないだろうか。

 私はここで、価値が生まれる前に先に取ってしまう「先取り」に原因を求めているが、そのことについては後に詳論することにして、その前に、新自由主義の理論に対峙するケインジアンの理論を次回に見ておくことにしたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/01/06にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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