財政出動を要請する「先取り」の影響

前回「先取り」概念を道具としてサブプライムを例に挙げて分析したように、「先取り」された虚の価値、すなわち空っぽの価値は、金融市場や実体経済まで破壊してしまった。しかし、それだけで収まったわけではない。今度は、政府に財政出動を促すのである。

例えばアメリカでは、2009年の金融危機に対して、200兆円の支援策が打ち出された。その財源として国債が発行されることは確実であろうが、国債発行となれば、ここで国家レベルの「先取り」が行われることになる。

さらに、「先取り」はアメリカ国内にとどまるわけではない。例えば、日本では、この3月24日に成立した2010年度予算によると、一般会計総額は過去最高の92兆円であるが、そのうちの新規国債の発行額は44兆円である。これに対する税収は37兆円に過ぎず、当初予算で国債が税収を上回るのは戦後初である。このように、結局のところ各国は国債に頼って財政出動をすることになるだろう。つまり、「先取り」は国際レベルにまで広がってしまったのである。

こうして、サブプライムローンに発した「先取り」は、個人レベル、企業レベル、国家レベル、国際レベルの複合した「先取り」の段階に入って、今や、「先取り」の総合システムと言ってもよい社会になっているのだ。

 とくにアメリカは、仕組みをつくって、先取りを極端にやりつくした。もともとアメリカは、鉄鋼、自動車等、「ものづくり」に関しては、技術力、競争力の点で立ち行かないところまでになっていたのだろう。そこで、資本主義の「先取り」という属性を使って、それこそグローバルな「先取り」の仕組みをつくり、大々的に「先取り」をしはじめた。そして、その仕組みを維持するために、世界中に網を張り巡らして、アメリカ流のグローバル・スタンダードを各国に採用させたのである。

さらに、あらゆる手段を使い、「先取り」をするためにエネルギーを投入した。例えば、日本に対しては、年次改革要望書による達成度を連邦議会で年次報告することにした。従順な日本は、その年次改革要望書に従って、数々の「改革」を行い、その結果、企業は時価会計制度を採用し、含み資産のある会社は乗っ取られやすくなった。そして、合併、統合、買収をしやすくするために、会社法の「改正」まで行なった。こうして、「先取り」の拘束力は、日本の制度にまで及んできたのである。

しかし、裏を返せば、アメリカは、そうやることが必要だったからであって、結局行き着くところまで行ってしまったのだと言えるだろう。

 そして、それが破綻すると、その付けを現在の人々のみならず、将来の人々に回さざるを得なくなった。

 ここで、私が『先取り経済 先取り社会』に書いた〈「先取り」の仮説〉を思い起こしてほしい。この本は、1990年に書いたものだが、その原型は、1969年に書いた『剰余価値の先取り体制に関する試論』にあったものである。私は、この間40年以上を経た今日まで、「先取り」の仮説を分析道具として、経済現象と社会現象を見ていたが、つくづく実感することは、「価値が生み出された後にその分配関係が本質的矛盾となるのではなくて、生み出される前に先取りされた虚の価値が、後にいかにして実の価値として埋めつくされるかが、本質的矛盾となるのである」という〈「先取り」の仮説〉が、事実として目の前に現れることである。

ところで、現在及び将来の人々が長年にわたって辛苦し、その付けを支払うことができれば、「先取り」された空っぽの価値に、ようやく実が入る。つまり、虚が実になるのである。

 しかし、話はそのようにうまく完結するものだろうか。

 現在及び将来の人々に付けを回した結果がうまくゆかないことになりそうであるならば、いったいどうすればよいのだろうか。あるいは、世の中はどうなってしまうのだろうか。

 自由主義的な資本主義を徹底するのであれば、破綻した企業は、整理、破産し、経済社会から退場してもらうのが筋であろう。しかし、金融機関を潰して多くの預金者、投資家に損害を与えることは、経済、社会に及ぼす打撃が大きすぎる。また、ビッグスリーを破産させて失業者を街にあふれさせ、大工場を廃墟にしてゴーストタウンをつくるわけにはゆかないだろう。

 つまり、どのようにあがいても、話はうまく完結しそうにない。

 このように「先取り」という病が膏肓に入ると、もはや資本主義の原理では解決できなくなってしまったというべきではないだろうか。

しかし、こういうときによく持ち出されるのは、本来の資本主義に戻って、勤勉に働き、資本を蓄積して、ものづくりを中心とする技術革新や新興国の市場を開拓し、地道にやってゆこうという考えである。

 私も、基本的にはそのような意見に賛成である。しかし、如何せん「先取り」によって吊り上げられた価値の単位が大き過ぎる。つまり、金融市場でつくられた見せかけの価値が大きすぎて、地道な努力では追いつかないのである。工業生産でさえそうであるが、一次産業の農林漁業では、一定の労働時間によって得られる価値が、金融によって吊り上げられた価値にまるで追いつかない。つまり、労働の値打ちがアンバランスなのである。こうなると、地道な資本主義に回帰するのは、現実性に乏しいと思われる。

そこで考えられるのは、インフレーションその他によって、貨幣価値を下落させることである。貨幣価値が下落すると、「先取り」された虚の価値は相対的に減少するので、自動的に縮小されてゆく。この場合、貨幣そのものの価値を下落させることが最も手っ取り早い。しかし、第一次世界大戦の後のマルクの大暴落がナチスの台頭の遠因になったことを考えると、これは最も避けたいシナリオだろう。まして、為替の自由化が徹底し、自国の貨幣の動向がその国の命運にかかわっている今日、貨幣の下落は致命的になることははっきりしている。2009年2月14日に閉幕した主要7カ国財務相中央銀行総裁会議G7)の声明の中で「為替相場の過度で急激な変動は、金融システムの安定を損なう。市場を注視」と謳われた以上、その方向に行かない方策がとられると期待したい。

一方、同年3月14日に閉幕した主要20カ国・地域(G20)の財務相中央銀行総裁会議の共同声明の中では、「各国は成長を回復するまであらゆる必要な行動をとる。ヘッジファンド格付け会社を登録制にし、情報も開示する」とされるとともに、「財政出動の速やかな実施。各国の中央銀行は必要な限り金融緩和を続ける」と強調された。さらに、同年4月2日に閉幕したG20による金融サミット(緊急首脳会議)では、「金融・財政政策を総動員し世界経済を回復軌道にのせる」、「10年末までの各国の財政刺激策は総額5兆�(500兆円)で、世界の成長を4%押し上げる」という共同声明が採択された。しかし、各国が一斉に財政出動をし、金融緩和に走ったときに、インフレを助長し、貨幣価値を下落させる力学が働く心配はないのだろうか。

ここで、ハイパー・インフレーションによる貨幣の崩壊をもって資本主義の解体とする岩井克人教授の説(第8回)を思い起こし、資本主義の終焉が近づいてくる足音を聞く人も少なくないと思われる。

しかし私は、「先取り」によって中身が空っぽになってしまった今の時点で、すでに「資本主義は終わっている」と認識している。

では、なぜ今すでに「中身が空っぽになってしまった」と言えるのだろうか。次回にそのことを考察したい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/31にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「先取り」概念によるサブプライムローンの分析

「先取り」は、あくまでも認識のための道具概念であって、私は、それ自体が真実であると主張しているのではない。しかし、「先取り」概念を使うと、事象を正確に認識し、分析することができる。そこで、米国で行われたサブプライムローンの問題とそれを引き金にして起こった金融崩壊、経済危機を例に挙げ、「先取り」概念を使って認識、分析してみよう。

  サブプライムローンとは、低所得者向けの高金利住宅ローンである。すなわち、信用力が劣り、返済能力に疑問がある収入の少ない人々に、住宅を購入させるために組まれるローンである。

 米国における住宅ブームは、最初は高級住宅地で起きたが、需要を掘り起こすため、次には中産階級、さらにサブプライム層(低所得層)がターゲットにされるようになった。本来サブプライム層は、なかなか住宅資金を借りられなかったが、ローンが組みやすくなったので、念願のマイホームを持つことができるようになった。

最初の住宅ローンの貸し手はレンダーというが、レンダーがサブプライム層の人々にローンを組ませる手口は、次のようなものがある。すなわち、まず元利払いの返済が所得の5割あっても融資できると借り手に誘いかける。これに不安を持つ借り手には、住宅価格が値上がりするから、買った住宅を担保にして次の融資を受け、ローンの元利払いに充てればよいと説得する。つまり、不動産担保融資を利用して、借り換えができると勧めるのである。さらに、最初の2年は元本の返済が不要で、金利も安くすることにして、いっそう借りやすくする。この場合、最初の2年が過ぎると返済額は一気に跳ね上がるが、そのころには住宅価格も間違いなく値上がりしているから、住宅を担保に借り換えをすれば大丈夫だと説明する。

 この話に乗ったサブプライム層の人々は、ローンを組むという方法で、自分の将来の収入を「先取り」したことになる。この段階ではまだ個人レベルの「先取り」であるが、個人レベルとはいえ、おそらく長い将来の収入の半分に及ぶ「先取り」であるから、借り手の一生を拘束するに違いない。しかも、これが少ない人数ならともかくとして、非常に多数に及んだときはどうなるのだろうか。オバマ大統領が7兆円の公的資金を使って支援する住宅所有者が最大900万人と発表されているから、支援対象にならない数を含めると、少なくともその何倍もの規模の「先取り」が行なわれたことになるだろう。こうなると、それだけの規模の人々が何年も働いて生み出すべき富や価値の半分を、「先取り」によって吸い上げてしまったことになる。しかも、その富や価値はまだ生み出されていないのであるから、「先取り」された時点では中身のない空っぽのものである。私はそれを、「虚の価値」と呼んであるが、要するに数字上のものであって中身はない。

 では、吸い上げられた「虚の価値」は、どうなるのであろうか。

 住宅ローンは、貸し手であるレンダーから大手の貸し手へ売却される。レンダーはその売却によって資金を手にし、次の融資に回す。そして、売却された大量の住宅ローンは、投資銀行の手で束ねられ、「住宅ローン担保証券MBSモーゲージ・バックト・セキュリティ)」として証券化する。こうして、「先取り」された虚の価値は、空っぽのまま転々と移転し、証券の中に埋め込まれるのである。

 さらに、高度な金融工学の手法を使い、サブプライム住宅ローン担保証券を、格付けの異なる住宅ローン担保証券や住宅ローン以外の証券と混ぜ合わせるなどして、新たな債務担保証券(CDO=コラテライズド・デッド・オブリゲーション)と呼ばれる証券がつくられる。つまり、サブプライムの住宅ローンで「先取り」した虚の価値を粉々にして新たな証券に埋め込み、リスクを少なくしたように見せかけるのである。そして、捏ねまわしているうちにリスクが見えなくなり、いつの間にか最上級の証券に仕立て上げられて、それを世界中の投資機関が買い漁る。投資機関の側は、先進国全体の金利が低いため、有利な投資先を鵜の目鷹の目で探しているときに、CDOのような証券化商品があらわれると、ときには年率10%の高利回りになるので、その金融商品に飛びつくのである。

 ここで明かになることは、個人レベルの「先取り」に始まったサブプライムローンが、企業レベルの「先取り」の方向に展開した事実である。

 しかし、「先取り」された虚の価値は、どこまで行っても空っぽのままであるから、細分化しても危険であることには変わりがない。いや、細分化すればより広く行き渡るのでいっそう危険である。因みに、1997年には、デリバティブの価格算定方式を完成させた2人にノーベル経済学賞が与えられたが、私は、近未来小説『デス』の中で、主人公Nに、次のように言わせている。

  「デリバティブは、前世紀を5分の1ほど残す頃に宇宙局や軍需産業から転職した連中が開発した金融商品だといわれている。だから、出自からして、雲をつかむような話で人を欺くことや、人のものを奪い取ることを、何とも思っていないわけだ。」

 さらに問題なのは、レバレッジをいかに高めるかという競争が起こることである。レバレッジというのは、「てこの作用」のことであるが、小さな力を使って大きなものを動かす比喩として使われる言葉である。小さな自己資本を信用にして資金を借り入れ、大きく膨らませて、運用して利益を上げようと企むのである。市場では、10分の1の保証金で10倍の金融商品を購入することができるから、このレバレッジによって、「先取り」される虚の価値は一気に大きくなり、ますます亢進する。

 この過程で、証券を購入するための資金を調達するために、銀行その他の金融機関が動員される。さらに、リスクをヘッジ(回避)するために、保険会社も参画する。ここで、クレジット・デフォルト・スワップCDS)の仕組みを見ておこう。

 債務担保証券(CDO)はリスクが分かりにくいため、ほとんどの場合、一種の保険がつけられていた。したがって、CDOに損失が発生したときには、保険会社がその損失分を補償してくれるようにしたのである(保険料は通常数パーセントで、住宅ローンなどの債権は長期間のものが多いが保証期間があまり長期だと保険期間もリスクが大き過ぎるから、通常は5年程度の契約になる)。保険会社は、いろいろな投資家、投資会社、投資家である金融機関と保険契約を結び、巨額の保険料が入る。このことは、一見「先取り」によるリスクを回避するための仕組みに見えるが、実際は、CDSを組み込むことによって、投資家にCDOを購入してもらいやすくするための役割を果たす。このCDSの普及によって、サブプライムローンによる「先取り」は、いっそう助長されることになった。

 こうして、この企業レベルの「先取り」は、とてつもない規模に成長してしまったのである。しかし、サブプライムローンの成長は、企業レベルで止まるわけではない。さらに国家レベル、国際レベルに発展するのだ。私は、「先取りは先取りをよぶ」、「先取りはそれ自体の拡大再生産をよぶ」という公式を作ったが、その公式どおりに展開するのである。以下に、その生態を見てみよう。

 さまざまな仕組みによって膨らみ、いろいろなところに潜り込んだ虚の価値、すなわち空っぽの価値は、泡のように消えてしまうわけではない。空っぽの部分を埋めようとして実に異様な力を発揮するのである。すなわち、虚を実にしようとして、暴れまわるのである。これが、私の言う「先取り」の拘束力である。

 何事もなければ、「先取り」した虚の価値をたらい回ししていればすむことかもしれない。しかし、そうはゆかないのである。

 サブプライムローンで見たように、この仕組みを維持するためには、地価が上昇し続ける必要がある。また、「先取り」によって膨らみ過ぎた資金は投資先を求めて、世界中を駆け巡る。資金を受け入れたところは、増資をして設備投資をする。こうして、見せかけの景気上昇が起こるから、消費者の購買力も増加し、消費は増え続ける。

 しかし、この上昇気流がいったん下降に向かうとどうなるのであろうか。

 2008年3月、サブプライムローンの破綻によって資金繰りが悪化したアメリカの投資銀行ベアー・スターンズが経営に行き詰まった。同年7月、住宅市場の低迷から政府住宅金融機関のファニーメイ(連邦住宅抵当金庫)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)が破綻の危機に陥るが、政府の管理下に置かれることになった。

  そして同年9月、投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻を迎え、金融危機は世界中を覆いつくすことになった。アメリカの5大投資銀行のうち、破綻したリーマン・ブラザーズ以外の投資銀行は、商業銀行に業態を変え、ウォール街から投資銀行は姿を消した。この間、世界最大の保険会社アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)は、サブプライム問題の影響で経営危機に陥っていたが、こちらの方は救済措置がとられて、事実上政府の管理下に入った。

 この金融危機はやがて、実体経済に影響を及ぼしてきた。アメリカの住宅ブームによって、家計の過剰消費、過剰借り入れ体質が強まったので、耐久消費財、とくに自動車をローンで購入するニーズが増えていた。しかし、住宅ローンの返済などに苦しむようになると、耐久消費財の販売額は急速に萎み、アメリカ産業界のリーダーであったGM(ゼネラル・モーターズ)、フォード、クライスラービッグスリーが経営難に陥り、政府の救済措置を仰ぐようになった。この自動車のニーズの落ち込みは、ビッグスリーだけでなく、輸出に依存している日本の実体経済にも甚大な打撃を与えることになった。日本を代表するトヨタ自動車でさえ、対アメリカの輸出台数が激減し、赤字決算に追い込まれ、人員を削減するところにまで追いつめられているのである。

 このように、サブプライムローンという仕組みによって「先取り」された虚の価値は、金融市場でレバレッジが効かされて巨大なものに膨れ上がり、あちこちの金融機関や実体経済の中に潜り込み、拘束力を発揮して、経済を破壊しつくすのである。

 そして、「先取り」の無責任性によって、誰も責任をとらない。サブプライムローンのレンダーが責任をとったという話を聞いたこともないし、デリバティブを開発した人間が責任をとったという話も聞いたことはない。

 しかも、「先取り」の無責任性の特徴は、とんでもないところ、「先取り」には何らの責任のない人のところに結果があらわれるということである。例えば、アメリカで行なわれたサブプライムローンによる「先取り」が、めぐりめぐって日本の労働者を失業に追い込む。言うまでもなく、失業に追い込まれた労働者には何の責任もない。これが「先取り」の無責任性の恐ろしさである。

 このように、「先取り」概念を使って分析すると、ものごとが正確に見えてくることが分かるであろう。サブプライムローンは、「先取り」に一例に過ぎないが、手を替え品を替えて、同じような「先取り」が同時並行で行われている。そして、次回に見るように、「先取り」の恐ろしさは、さらに先に展開するのである。(廣田尚久)


※本エントリは2010/03/24にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の5)

前回は、『先取り経済 先取り社会』に沿って、「先取り」理論の展開を途中まで書いたが、先に進めよう。

「二つの仮説」という章では、「先取り」の仮説を修正するとともに、もう1つ仮説(スタグフレーションの仮説)を立てたが、ここでは、「資本主義は終わっている」というテーマに従って、前者のみを説明することにしたい。

 なお、『剰余価値の先取りに関する試論』の中では「剰余価値」とあるが、「剰余」をはずすことについては前々回と前回で述べたとおりである。その結果、「先取り」の仮説は、以下のとおりとなる。その後に書いた小説も、今回変更した内容を念頭に置いていたので、ここで、「先取り」の仮説について、修正部分ふまえて、まとめておく必要があるだろう。すなわち、価値先取りの仮説は、次のとおりとなる。

   「現在の経済の特徴は価値を先取りする強い指向をもっていることである。価値の先取り体制のもとでは、価値が生み出された後にその分配関係が本質的矛盾となるのではなくて、生み出される前に先取りされた虚の価値が、後にいかにして実の価値として埋めつくされるかかが、本質的矛盾となるのである。」   以上の中で、「価値」という言葉が分かりにくいかもしれない。ここでは、「人々の労働や企業活動によって生み出されるもの、あるいは生み出されるべきもの」という意味で使っている。「富」とか、「財貨」とか、「利潤」とか、「付加価値」とかという言葉に置き換えてもよい。

 したがって、その「価値」を生み出すものは、「労働」とは限らないとも言えよう。例えば、「知的活動」などもあり得る。しかし、そのようなものも、人々や企業が何らかのエネルギーを注ぐ営みであるから、それを総称して、「労働」と言っているのである。

 また、「埋めつくされる」とあるが、当然、埋めつくすことができなくなることもある。そのときは、経済的破綻という結末になるのだが、それは、「本質的矛盾」の中に入るものとして、特記しなかった。なお、本質的矛盾は、経済的破綻にとどまらない矛盾を露呈することもあるので、そのことも注意を要する。

『先取り経済 先取り社会』の次の「「先取り」の拘束力」という章では、拘束力の様相、「先取り」の潜入、消費と生産、社会問題、内なる疎外という順序で、拘束力を論じている。まず、「拘束力の様相」については、次のような説明がある。

  「先取りされた価値は、はじめは計算上のものであっても、次第に実体になろうとして、ここにさまざまな力学が働いてくる。すなわち、虚数が実数になろうとして、巨大なエネルギーが動きはじめるのである。このエネルギーには、2つの様相がある。ひとつは、先取りされた価値自体が、先取りされたという事実そのものによって点火され、自らエネルギーを増殖させて動き出すことである。もうひとつは、先取りされた虚数の価値を実数にしようとする人間や集団が、そのためにエネルギーを投入して増殖させることである。この2つのエネルギーは、相互に関連し補強し合いながら、虚数を実数にしようと強力な力を発揮する。あるときは巧みな宣伝を操り、あるときは物理的強制力をも辞さない。こうして、先取りは、人間の諸行動を拘束する。私は、これを「先取りの拘束力」とよぶことにする。」

 その例として、大量の国債発行が、国債の発行という先取りをしただけで、自動的に財政を硬直化し、将来を拘束するという歳出の面だけでなく、先取りした虚の数(まだ中身が入っていない空っぽの数字)を実数にしようとするエネルギーが働いてきて、新たな財源を求める動きをする。すなわち、地価の暴騰による譲渡所得税相続税の上昇など歳入の面にもあらわれてくる。その結果、地価暴騰の当時には、相続税を支払うことができず、やむなく土地を売却せざるを得ないという悲劇があちこちで起こった。このように、「先取り」の拘束力は、地価暴騰には何の責任もない人のところに働いてくるのである。

 次に、「「先取り」の潜入」では、地価暴騰によって吊りあげられた虚の価値が、家賃や立退料の中に潜り込んで、建物の賃貸借関係を破壊していることを指摘した。実際に、地価暴騰の当時は、この「先取り」の拘束力によって、多くの人が苦しんだり、影響を受けたりした。

さらに、「消費と生産」、「社会問題」などに言及したが、長くなるので省略する。ただ、「先取り」が私的所有にまで影響を及ぼしていることについて言及しているが、このことは、資本主義の根幹を揺るがす重要な問題であるので、その部分の主要点を引用することによって、ここで頭出しをしておこう。

  「資本制社会における法は、私的所有のうえに成り立っている。すなわち、所有者は、自己の所有物を排他的に支配できるという前提で社会が組みたてられている。しかし、「先取り」が拘束力を発揮すると、この根幹が怪しくなってきた。私は、『剰余価値の先取り体制に関する試論』で、「個々の商品が私的所有の対象となる以前に、外界的自然を企業ないし国家が支配しているという観念が先行し、しかもその支配の観念が、複雑に折り重なってくる傾向がある。」と言ったのは、このことである。すなわち、所有者が自己の所有物を排他的に支配できると思っていても、実は、その所有物のうえに、他人の手が伸びてきているのだ。自分の所有物が、既に他人の手の中にある、しかもその手が何本もある、これが先取り体制のもとの所有権の姿である。」

 「社会問題」の最後には、「内なる疎外」という項目があり、「先取り」によって心を失っていく様相を取り上げた。

   「人びとは、価値を先取りされてしまっているが、肝腎の相手が見えない。闘うべき相手が見えればその相手と闘えばよいのであるが、先取りした相手は過去にいるか、遠くにいる。また、単数とは限らない。むしろ多数ということが多い。いずれにせよ、漠然としていてよく見えない。体制そのものによって先取りされていることもある。また、人びとは、目標を設定することができない。先取りされた質量が大きすぎて、少々頑張ったところでとうてい追いつけない。こうなると人生の目標も何もふっ飛んでしまう。かくして人びとには無力感が支配し、主体性を喪失していく。」

 そして、第一次世界大戦後のドイツにおけるマルクの暴落の時代に、精神病が多くなり、道徳的退廃が広がったことを例にあげ、わが国に横行している、詐欺、横領、略奪、暴力、殺人……この不可解で、陰鬱で、出口の見えない精神的荒廃について、私は、「書く元気はない」と言っている。ここでは字数の関係で詳しく述べることはできないが、「先取り」の拘束力はまことに凄まじいばかりである。

私が『先取り経済 先取り社会』を書いたのは1991年だったが、それから20年近く経った今、街に失業者があふれ、犯罪が横行している様相をみれば、「先取り」の仮説が現実になっていることは、誰でも実感できることだと思う。

『先取り経済 先取り社会』では、最後に「処方箋」という章を設けて、「先取り」に対する解決方法の困難性に触れ、考え得る対処方法を述べたが、この問題は、1991年から今日に至るまで継続している懸案問題であるから、後にまとめて考察することにする。

 さて、『先取り経済 先取り社会』を書いたものの、私の生業である弁護士の仕事はますます多忙を極め、会社員時代に構想していた体系書を書くことは、とうてい不可能であることが分かってきた。しかし一方、地価暴騰という狂乱状態が沈静化して、経済的不況がやってきた。それと軌を同じくしてデリバティブ金融派生商品)などという金融商品が出回って、新たな方法による「先取り」が行われるようになった。

 私としては、これこそ畢生の仕事と思い定めていたテーマであるから、黙って見過ごすわけにはゆかなかった。さてどうするかと考えていたとき、私はふと、幼少のときから小説家になろうと考えていたことを思い出し、小説の形式で書いてみようと思いついた。そして、小説の方が、いろいろなテーマを織り交ぜて「先取り」を書くことができるし、深いところまで到達できると自分を納得させた。

 こうして書き上げた近未来小説が、『壊市』(汽声館、1995年5月・全286頁)、『地雷』(毎日新聞社、1996年5月・全284頁)、『蘇生』(毎日新聞社、1999年9月・全343頁)の三部作と『デス』(毎日新聞社、1999年6月・全198頁)である。

 これらのボリュームのある小説を、ここで紹介することはとうていできない。しかも、テーマも、「先取り」だけでなく、貨幣、環境、武器、民族、国家、紛争、和解、対話、衆議、ボランティア、入会権、社会、宗教、神、愛と入り組んでいる。しかし、表の筋は「先取り」に乗せてあるので、それなりに従来から私が抱いていた課題に答えた形になっている。

 これらの小説の中で、「先取り」に関する『先取り経済 先取り社会』以後の経済現象や私なりの考察などを扱っているので、本来ならば、その「あらすじ」だけでも書いておきたいところである。しかし、この「「先取り」理論の成立と展開」の章は、すでに5回にも及び、あまりも長くなってしまったので、省略せざるを得ない。

 ただ、ひと言だけ言わせていただければ、小説『デス』に書いた当時の近未来の世界が、10年後の2008年秋アメリカ発の金融崩壊によって、ほぼ現実のものになってしまった。したがって、もしご関心があれば、図書館で読んでいただきたい。私の小説は、あまり売れなかったので読んだ人は少ないだろうが、多分図書館には今でも残っていると思う。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/17にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の4)

前回紹介した『剰余価値の先取り体制に関する試論』には若さ故の気負いがあり、文章が生硬で、内容的にも少し手を入れたいところがあるが、それはともかくとして、私は、この仮説を体系化することを畢生の仕事としようという気持は持ち続けていた。

 しかし、人生というものは、思うようにはならないものである。幸か不幸か、私の弁護士稼業は多忙を極め、「先取り」どころではなくなってしまった。そこで、早く「先取り」の取りかかりたいと思ったので、時間と手間がかかる裁判をできるだけしないようにと考え、交渉や和解によって紛争を解決することにした。ところが、世の中には和解によって解決してほしいというニーズがたくさんあって、かえって忙しくなってしまった。そして、「先取り」の方にはまったく手がつけられずに、あっという間に23年もの年月が流れてしまった。

一方、裁判をしないで交渉や調停・仲裁によって紛争を解決することについては、それがだんだん流行のようになる兆しが見えてきた。そこで私は、いずれ「先取り」に関して本を書くのだから、予行演習のために書いてみようと思って1988年に『弁護士の外科的紛争解決法』(自由国民社)を書き上げ、さらに後のことになるが1993年に『紛争解決学』(信山社)を書いたところ、ちょうど裁判をせずに紛争を解決する裁判外紛争解決(ADR)に対する取り組みがはじめられようしていた時機にマッチして、あたかも和解の専門家のように見られ、あちこちからお座敷がかかるようになった。

つくづく深みにはまったという思いをいだいていた1980年代の後半から1990年代のはじめころ、地価が異常に暴騰し、人々は、「バブル」、「バブル」と大騒ぎをするようになった。そして、狂乱地価が猛威をふるい、その地価の暴騰が引き金になった多様な事件が、いくつか私の事務所に運ばれてきた。

私は、その地価の暴騰こそ、価値の先取り体制がもたらした具体的な姿であることを、強く意識した。そして、先取りされた空っぽの価値が、奔流となって家賃や立退料に潜入するありさまを見て、もはや居ても立っても居られなくなった。

そのような衝動にかきたてられて、私は、1991年に『不動産賃貸借の危機――土地問題へのもうひとつの視点』(日本経済新聞社)を書いた。本来先に体系化すべき総論を飛ばして、各論を書くはめになってしまったのである。そして、この本の「あとがき」で『剰余価値の先取り体制に関する試論』に触れ、その一部を引用しておいた。

出版物でこの『試論』に触れた以上、いつまでも放っておくわけにはいかない。私は、3か月間新しい事件を受任しないことにして、まず時間をキープした。そして、とにかく筆を執ることにした。

こうして書き上げたのが、1991年刊行の『先取り経済 先取り社会――バブルの読み方・経済の見方』(弓立社)である。本の帯には、緑色の地の上に黄色で「バブルではない。先取りだ!」と大書されている。以下、『先取り経済 先取り社会』の内容に沿って、その要点を説明させていただくことにする。

まず、私は、「産業資本の側からの資金の需要は増加しながらその供給が減少すれば、利子率が騰貴するのは当然であって、賃銀の騰貴ないしは在荷の増大による利潤率の低下とともに借入資金の支払はもちろんのこと、利子さえ支払いえないことにもなり、一般的に信用関係が攪乱せられ、恐慌状態に陥らざるをえないのである。」(宇野弘蔵編『経済学 上巻』角川全書・142頁)という見解を引用し、それと私の「先取り」という認識との相違点を、次のとおり3点挙げている。

 「第1の点は、剰余価値の先取りという現実の姿にたってものを見ようということである。すなわち、利潤率の低下→価格の思惑騰責→信用関係の攪乱という順序で進むのではなく、剰余価値の先取りという認識を先にたてて、これを分析の道具とし、価格の思惑騰責、信用関係の攪乱などの諸現象を解明しようという方法をとる。

従って、第2の点として、私の方法によれば、恐慌という終着点に必ずしも到達するわけではない。利潤率の低下→価格の思惑騰責→信用関係の攪乱という認識にたてば、どうしても「恐慌状態に陥らざるをえない」という結論に到達するであろうが、私の先取り経済という認識にたてば、その都度その都度矛盾を解決しながらとり込んでいくので、容易に恐慌状態には陥らない。

従って、第3の点として、私は、その都度その都度矛盾を解決しながらとり込んでいくという過程の中にこそ真の問題があると認識する。このことはまた、先取り経済の功罪の「功」の方も視野に収めることになる。」

以上のように、これまでの経済学との相違点を押さえたうえで、私は、『先取り経済 先取り社会』という本を書き進めることにした。

 なお、『剰余価値の先取り体制に関する試論』の中では、「剰余価値」という概念を使って論じたが、これは労働価値説に強く引っ張られているような印象を与えてよくない。地価も考察の対象とすることを考えれば、「剰余価値」では適切でないと考えられる。したがって、『先取り経済 先取り社会』からは、「剰余」をはずして、「価値の先取り体制」とか「先取り経済」という言い方に変更した。その結果、概念的には厳格性を欠くことになるが、かえって一般性があって分かりよいのではないかと思ったからである。

 ところで、『先取り経済 先取り社会』は、全体で205頁の単行本であるから、ここでその全部を紹介することはできない。しかし、「資本主義は終わっている」という思考に至るまでには不可欠なことなので、必要な限度で骨子を述べることにしたい。

 まず『剰余価値の先取り体制に関する試論』の全文を引用し、その後は、「先取り」の態様、2つの仮説、「先取り」の拘束力、処方箋という章立てになっている。そこで、この順序にしたがって、以下に説明する。

 ここで、「先取り」の態様として取り上げたのは、個人による先取りとして融通手形とサラ金、企業による先取りとして利益計上の先行性、国家による先取りとして国債、個人・企業・国家による先取りの総合形態として地価暴騰である。

 そのひとつひとつについて詳しく述べる必要はないと思うが、そのうちの「利益計上の先行性」については、データをあげて、大企業の資本金に対する利益率は景気の変動にかかわらずほとんど一定であり、企業活動の結果が出る前に利益を計上する性向があるという仮説をある程度証明したうえで、「利益計上の先行性」の「功」について言及し、次のように述べている。

  「もともと経済成長のエネルギーは、将来企業規模が拡大することを見込んでそれを現在に引き寄せることによって増殖するものであるから、 利益計上の先行性をはかる衝動が起こることは自然の成り行きである。従って、利益計上の先行性の弊害だけを見ることは、片手落ちというものであろう。現実に利益計上の先行性によって企業は信用を獲得し、それによって設備投資をし、 さらに技術革新をはかって国民に多くの富や生活上の便利をもたらしたことは、事実としてまず肯定しなければならない。多くの国民が高度成長の恩惠を享受した事実に目を瞑るようでは、かえつてその弊害を語る資格はないと私は考えている。

  さらに、不況期になっても、企業は頑張って利益を計上してきた。そのときに、企業がそれぞれ工夫をこらし、合理化や新規事業の開発などに努力を重ねて、苦境を乗り切ってきた事実を考えれば、 利益計上の先行性によって信用を繁ぐという積極的な面も評価すべきであろう。従って私は、 利益計上の先行性とぃう企業の性向を非難の対象として論じてぃるのではない。そのプラスの面もマイナスの面も含めて、事実としての認識の対象に入れておこうといいたいのである。

   私の仮説は、大企業の資本金に対する利益率は、景気の変動の如何にかかわらずほとんど一定であり、 企業活動の結果が出る前に利益を計上する性向があるというものであった。この仮説が十分に証明されたと認められるかどうかわからないが、私には、「利益計上の先行性」という性向はあると確信している。 巨大な設備をつくってしまったらそれを稼動させなければ経済は循環しなくなる。高度成長の必然的結果として、全体が先取り経済の大きな車輪を押して、さらに動かしてしまったのだ。この圧力によって国債の発行も必然となる。」

 そこで次に、国債の項目に入るのであるが、ここでは、1966年1月に「昭和四〇年度における財政処理の特別措置に関する法律」が公布施行されて、戦後初めての赤字国債特例国債)が発行されたことに触れ、国債発行の歴史、国債の戦後史、国債の問題点に言及した。国債の問題点の中では、よく指摘されるように、大量の国債発行が財政の硬直化を招くということにも触れたが、私が最も言いたかったことは、国債が「先取り」に他ならないということである。

 この『先取り経済 先取り社会』を書いた当時の1990年末の国債発行残高は164兆円だったが、私の予想通りその後増加し続け、2010年度予算案によると、2010年度末の国債発行残高は637兆円(国債と借入金、政府短期証券を合わせた債務残高の総額は973兆円)の見込みになるということである。この国債等の国の借金総額を人口数で割ると、国民1人当たり763万円になる。

 ここで思い出してほしいことは、地価が暴騰した1990頃からしばらくの間は、国債発行は抑えられていたのである。この地価暴騰については、「バブル」、「バブル」と騒がれていたが、私は、これこそ「バブル」でなく「先取り」がもたらした典型的な現象だと考えていた。当時、都市部の地価が瞬く間に2,3倍に騰貴し、銀座などは3.3平方メートル(坪)当たり1億円を超え、日本の全国土の総額が1842兆円に達して、日本の全国土を売れば、アメリカ合衆国の全国土を4回も買えるという話が流布されていた。しかし、この地価暴騰が崩壊して、1990年代の長い不況が続いたことは、まだ記憶している人も少なくないだろう。この現象について、私は、次のように言っている。

  「1985年頃、東京の青山地区、銀座地区などからはじまった地価の高騰については、実際にビル需要があり、それが刺激になったことは事実であるが、将来のビルの需要が供給を大きく上回るという予測とカネ余り現象が結びついて、現実の需要を先回りする形で土地が買い漁られた。つまり、将来の需要が先取りされて、その先取りされた価格が高く設定されたのである。このようにして高く設定された地価は、その時点では、実質地価を相当上回った。私は、このようにして高く設定された地価と実質地価との差を「虚の価値」と呼ぶことにしている。この虚の価値は、虚の姿のまま連鎖反応をおこす。」

 そして、国債と地価暴騰との関係については、次のような記述がある。

  「国債発行残高が膨張する一方、1985年度からは10年ものの国債の償還が始まるという事態に及んで、財政の再建がはかられるようになり、赤字国債の発行をゼロとすることに目標が設定された。このような背景のもとに打ち出されたのが中曽根民活である。そして、この度の地価暴騰が折り重なるようにやってきた。この間の活発な土地取引によって土地譲渡所得税が大幅に伸び、1990年度の一般会計税収は60兆円を越えて、赤字国債は首尾よく発行しないですんだ。

  このように、地価の暴騰と国債の発行は、交互に、間髪をいれずやってくるのだ。それは何もおかしいことではない。地価の暴騰も、国債の発行も、価値の先取りということでは同じものであって、しかも、両方とも景気を刺激するという立派な役割を担っている。このことを考えれば、地価暴騰と国債発行が、相互に関連づけあって、舞台に登場することは、何の不思議もない。

  わが国の経済体制は、価値を先取りすることによってもちこたえているのであるから、国債発行が手づまりにきた後には、地価暴騰がやってくるのは当然である。」

 2008年来、サブプライムローンの破綻による金融崩壊に直面して、70兆円規模の公的資金を投入することが問題になっているが、1991年に私が書いたこととほぼそっくりな現象がアメリカで起こっている。私に言わせれば、資本主義は「先取り」を属性にしているので、このような現象が起こるのは避けられないことなのである。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/10にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の3)

前回に引き続いて、「先取り」という概念を思いついた経緯と「先取り」理論の内容を述べる。今回は、その3回目になる。

前回私は、1969年1月29日に行った金嬉老事件の意見陳述で初めて「先取り」理論を公表し、その意見陳述の一部に加筆して、1969年6月25日に発行された「金嬉老公判対策委員会ニュース第9号」に、『剰余価値の先取り体制に関する試論――金嬉老と手形との関係から』(以下、『試論』という)というタイトルで発表したと述べた。今回は、その『試論』に沿って論述を進めたい。

 前2回で、「先取り」という概念を思いついた経緯は述べたが、今回は、「先取り」という概念の説明をする。私は、この『試論』の中で、「先取り」理論をひと通り述べたので、『試論』をそのまま使えばよいことになるだろう。したがって、本来であればその全文をそのまま掲載する方がよいと思うが、全文を引用すると長くなり過ぎるので、ここではその要旨を述べる形にしたい。しかし、要旨というものの、「先取り」理論の原型を生かすために、可能な限り『試論』の文章を引用することにする。なお、『試論』は、私が31歳のときに書いたものであって、41年後の今読み返してみると、われながら生硬な感じがする。後に述べるように、「先取り」に関しては、その後に著作物を書いてきたので、後の方の著作物を詳しく紹介した方がよいのかもしれないが、そこに至るまでのプロセスを省略するわけにもゆかず、また「先取り」理論の基本的骨組みはこの『試論』で明かにしているので、まずは『試論』の主要部分を引用させていただくことにする。

 『試論』は、複数の節に分かれており、各節ごとにタイトルがついているが、冒頭の部分にはタイトルがなく、私の問題意識などが次のように書かれている。

  「金嬉老は債権取立てを不当として暴力団員の曽我を殺したとされている。私 は、この金嬉老の殺人の動機に強烈な関心を覚える。なぜ曽我は一枚の手形を持って金嬉老を追いつめたのか。この問に答えるためには、暴力団員の手に渡るような手形を流通させている経済体制 ――それは高度に歴史的である――を解明しなければならない。私は意見陳述において、起訴状にある通りまさに曽我による手形取立てを不当とみなしたことを動機として認め、手形とはそもそも何か、それがわが国の経済体制の中でどのような役割を果しているのか、そしてこのような手形を流通させている経済体制はどのような論理をもっているのか、 ということを考察し、金嬉老の行為の真の原因は何か、ということを私なりの視点から追求したつもりである。私は、ここであらためて私の意見陳述の根底にあつた問題意識を整理し、その骨子を述べておきたいと思う。

私は、下部構造を変えることなくして変革はあり得ないと考えている。「やはり下部構造だ」というのが、多くの人々とともに私の論理の出発点である。では現在の歴史的時点に立ったとき、この下部構造をどのように認識すべきであろうか。この点に対する私の考えが、この試論である。

  もとよりこの試論は、このような厖大な問題に十分答え得るほど体系化できていない。従って、多くは仮説的発言であり、全く骨組だけの試論であるが、できるだけ論点は出してみたいと思う。」  誤解のないように言っておくが、「下部構造」などという言葉を使うと、マルキストかと思われるかも知れない。しかし、私はマルキストではない。マルクスの用語を借りただけである。ここでいう「下部構造」とは、「ヒトが食べてゆくための経済構造」という意味である。しかし、変革を語るのであれば経済構造を無視することはできないという考えは、現在も『試論』を書いた当時も同じである。

 さて、『試論』を続けよう。まず、「現在の経済を支配している基本的論理は何か」というタイトルの一節がある。

  「現在の経済はどのような論理に支配されているか、即ち現在の体制はどのような論理にささえられているか、という、いわば結論を導き出すような問に、まず答えておきたいと思う。ここで現在の経済という場合、その場を一応限定する意味で、わが国の高度成長以後の経済を念頭に置いて論ずることにする(どの程度まで普遍化できるかは大きな問題であることを指摘したうえで)。

  多くの人々はこの問に対し、資本家が労働者から労働を搾取した成果である剰余価値を取得し、それが高度化して、国家機関が独占体に従属させられることを特徴とする国家独占主義の段階に達していると説くであろう。

  しかし私は、その段階をも既に通り過ぎて(或いは少なくとも同時に)、企業ないし国家が、労働によって生み出すべき価値の相当部分を、 剰余すべき価値として先取りする経済体制に入っていると認識する。即ち、ここでは価値が生み出された後、その分配関係が本質的矛盾となるのではなくて、生み出される前に先取りされた価値が、生み出された後にいかにして剰余価値として収集し、埋めつくされるかが、本質的矛盾となるのである。

  私は、このような経済体制を、剰余価値の先取り体制と呼ぶことにする。」

 ここで書かれていることが、私の「先取り」理論の骨子である。なお、ここでも「剰余価値」というマルクスの言葉を借りたので、マルキストであるような印象を受けるだろうが、誤解のないようにしていただきたい。ただ、ここで引用した部分は、労働価値説に引っ張られている印象が強いので、後に「剰余価値」という言葉を改め、単に「価値」ということにした。

 すなわち、「価値が生み出された後、その分配関係が本質的矛盾になるのではなくて、生み出される前に先取りされた価値が、後にいかにして収集し、埋めつくされるかが本質的矛盾となるのである」というところが核心であって、この「本質的矛盾」の捉え方で、はっきりマルクスと別れるのである。また、「先取り」を「バブル」と見ないことによって、他の経済学者との違いを明確にしたつもりである。

 さて、次の節は、「剩余価値の先取りはどのような形で行なわれるか」というタイトルになっている。ここでは、「先取り」の形態の代表的なものとして、企業の利益計上の先行性と政府の国債発行について述べているが、このことについては前々回と前回に述べたので、ここでは繰り返さない。

 その次の節のタイトルは、「先行的利益計上の無責任性」となっており、「先取り」の特徴として「無責任性」をあげ、次のように述べている。

  「個々の企業が無政府的に利益計上の先行をはかるために、経済全体のあるべき姿と、個々の企業の集合の現実の姿とは、およそかけ離れたものとなるが(例えば、真の需要とつくられる需要との関係)、そのことについて責任の所在が明らかでなく、従って責任がとられないということである。」

 なお、前々回に述べたように、ここで「先行的利益計上」とか「利益計上の先行」とかという言葉に対して違和感を持つ人が多いだろう。しかし、利益が生み出される前に計上するということは、高度経済成長期における価値の「先取り」の典型的な形態なのであって、これが後に地価の暴騰や金融操作などによる「先取り」に形態を変えてゆくのである。

 さらに『試論』の次の節は、「先行的利益計上の拘束力」となっている。そして、この節は、次のような文章からはじまる。

  「ところで、先行的に計上された利益は、はじめは計算上のものであっても、次第にそれが実体であると意識され、現実に将来の政策を拘束し、従って人間の諸行動を拘束するようになる。 国債発行が財政を硬直化させるのは、この拘束力によるものである。

  ここでは、企業とくに経済全体に影響力のある巨大企業の利益計上の先行性がもたらす効果について、考えてみたいと思う。私は、先行的利益計上の拘束力と呼ぶ効果を、問題として提示する。即ち、先行的利益計上の拘束力とは、前以て計上された利益に合わせるために、換言すれば、利益計上の先行性を正当化するために、経済、政治、社会を動かそうとする力が働き、この力が、後の経済、政治、社会ひいては人間の諸行動を拘束することになる、その力をいう。

  ある時は直接間接に国家権力の協力を得て価格協定が結ばれたり、 或いは大企業が合併したり、又は消費ブームをあおって需要を起したり、こうしたありとあらゆる経済内的、外的の手段がつくされて、先行的に計上された利益を理めようとするのである。」

 その後、労働、消費などにも言及するが、長くなるので省略する。なお、この節の結びは次のようになっているが、これを書いた当時の企業による代表的な「先取り」である「利益計上の先行性」の他に、将来の過剰な収入を予測して業務を拡張することやその後の地価暴騰やサブプライムローンなどの金融商品による「先取り」を加えれば、現在でも通用する論理であると思われる。

   「このように考えると、 利益計上の先行性は、 人々の行動を強く制約していることが判明する。 そして、利益計上の先行性、国債の発行等から、高度成長以後の経済は、剰余価値の先取りが構造化し、その効果として、人々の諸行動が将来にわたって拘束されているのであると把えることができると思う。」

 その次の節のタイトルは、「剩余価値の先取り体制をもたらした原因」である。ここでは、私自身の研究不足をお詫びしたうえで、原因を究明するときに見落してはならない点として、次のことを指摘している。

  「この問題は究極のところ人間と自然の関係の問題であるということである。人間の生活は、外界的自然に対する何らかの支配によって可能であり、外界的自然に対する人間の支配の仕方は、人間の歴史的発展の段階に応じて異なっている。そして、資本主義経済の発展に伴い、物自体の支配関係から信用を媒介にして債権関係が分離してきたが、現在は、媒介機能を担うべき信用が観念化、抽象化され、実体の有無にかかわらず信用有りとして、大量で計量不能な取引きが行なわれるようになった。即ち、外界的自然を未だ支配していないうちに、観念化された虚数の信用を媒介として取引きをすることが可能となり、しかもその虚数の信用なしでは経済循環が行なわれないほどになった。ここに、剰余価値の先取り体制をもたらした原因の重要な部分があると私は考える。」

  「若し私の仮説が正しいとすれば、剰余価値の先取り体制のもとでは、所有の形態に変化が見られるのではないかと思われる。即ち、所有が人間の外界的自然の支配の歴史的な形態であるとすれば、個々の商品が私的所有の対象となる以前に、外界的自然を企業ないし国家が支配しているという観念が先行し、しかもその支配の観念が、複雑に折り重なってくる傾向があらわれるといえるのではないであろうか。このことは、所有を法的にどう論理構成するかという問題とは別である。法的な論理構成は、むしろあとから追いかけるものであるが、その難しさは、観念的で、しかも重量的な外界的自然支配が、前以て行なわれていることに由来するのである。 いずれにせよ、所有権の絶対性を前提とする近代的所有制度がどの程度妥当しているか、ということを剰余価値の先取り体制との関係で研究する必要がある。」

 ここに、「所有の形態の変化」という言葉が出てくるが、今思い返してみると、資本主義の終焉をすでに予感していたと言うことはできるだろう。しかし、正直なところ、このときはまだ、「資本主義は終わっている」というはっきりした意識は、私の中になかった。それよりも、ここに書いたように、資本主義の基礎を構成している「私的所有」が壊れてしまったのか否かを、研究してみようという気持が強かったのである。

 そのあと『試論』は、「剰余価値の先取り体制下の人間」、「金嬉老と手形の関係」という節に移るが、今回は長くなり過ぎたので、省略する。ただ、最後の「今後の間題」という短い節だけは、全文引用しておく必要があるだろう。

  「私は、私の問題意識を以上のように整理してみて、あらためて自分の思考の出発点に立ったような気持がする。でき得れば、これを体系的に考えぬいてみたいし、またここから国家や文明についても考えてみたい。

   しかし、それにしても何をなすべきであろうか。即ち、いかにして剰余価値の先取り体制の桎梏から自己を解放すべきであろうか。 決定的に運動論が欠如していることに果てしない不安を覚える。

   いずれも、今後の問題として自らに課しておくことにする。とりあえず、不完全なままの、このような試論を提示して、 批判をうけたいと思う。(廣田尚久)

※本エントリは2010/03/03にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の2)

前回から「先取り」という概念を思いついた経緯を述べることにしたが、今回は、前回に引き続いて、私が1966年にまとめた『663メモ』の続きを転記することからはじめたい。

  「利益計上の先行性を何故に、ここで問題として把えるのか。これは単に企業の会計、計 理をゆがめ、不当配当の問題を提起するということにとどまらない。現代のように、資本が集中し、一企業の経済全体に及ぼす影響力が増大すると、利益計上の先行性は、経済全体の不健全性をもたらすからである。とくに将来の需要を予想して過剰に利益を計上しておく場合には、この将来の需要が保障されない限り、企業の存続は不可能である。しかも、この企業は経済全体に及ぼす影響が大きいため、消滅させることは出来ない。そこで将来の需要の保障ということが至上命令となってくる。

  ここで、考えられることは、自然に需要が増大されない限り、色々の経済政策として打つ手が考えられる。まず、公共投資、海外への資本輸出、戦争ないし防衛費の増大、等々。しかし、ここで見落される問題が多く発生するのではないか。中小企業の整理統合、企業合理化に伴う失業者の増大等の問題である。また、公債発行という形式の租税の前借り、ここまでいくと、国家自体が一定の需要予想を見込んで、政策をたてていることになる。このことは、実際には、見込需要の確乎たる保障はないということになる。」

 発表することを予定していなかった走り書きのメモであるため、文章が整っていないところがあるが、これは米国3大自動車メーカーの破綻に対して公的資金を投入することの是非が問題になった2008年の話ではない。その40年以上も前の1966年に、まだ予兆すら見えなかった時期に書いた私のメモである。また、日本では、この年に戦後初めて赤字国債が発行されて均衡予算主義からの転換が行われたが、「公債発行という形式の前借り」という表現で、赤字国債発行の意味をここに位置付けていることに注意していただきたい。『663メモ』は、そのあと「利益計上の先行性」による影響に言及しているが、長くなるので今回は省略させていただく。

 『663メモ』を書いた翌月に、私は司法修習生になった。司法修習は、予想したよりもはるかに忙しく、「先取り」に着手することはなかなかできなかった。しかし私は、このことが絶えず気になっていたので、『663メモ』の内容の要旨を戯作風に書き改めて、『H氏語る――利益計上の先行性について――』という文章にまとめ、それを司法修習生の友人に読んでもらった。長さは400字詰め原稿用紙28枚、日付は1967年11月5日〜9日である。その友人は、その原稿用紙の余白にびっしりと意見・感想を書いてくれた。

 この『H氏語る』の中に「先取り」という概念がはっきり出てくるので、その部分を書き写しておこう。

  「利益計上の先行性が行われることは、計算上剰余価値の先取りが行われることに他ならない。丁度、これは、わが国の国債発行と呼応している。前者は、企業的規模で、(そして各企業の相互の関連性を考慮に入れればそれが高度化するに従って拡大された社会的規模で)、後者は国家的規模で、計算上で剰余価値の先取りを行っているのである。はじめは、計算上のものであっても、次第にそれが実体化したものと意識され、現実に、将来を拘束してくる。(将来を拘束する力があるから、現実のものでないと思う人は少ない。例えば、国債発行と財政の硬直化の関係を考えてみればわかる)。こうして、先取りされた剰余価値は、どんどん累積してくる。国民はこの累積された将来の剰余価値の重圧にあえぐようになる。」

 いかがでしょうか。これは、国債発行残高が637兆円(財投債を除く)に及ぼうとしている2010年2月現在に書いたものではない。43年前の1967年11月、すなわち戦後はじめて赤字国債が発行されてから1年程度の時点で書いたものである。

 そして、年が明けて1968年2月20日、あの事件が起こった。 あの事件?

 それは、在日朝鮮・韓国人の金(キム)嬉(ヒ)老(ロ)が、暴力団員から手形の支払いを迫られ、それを不当として暴力団員を射殺し、山奥の寸又峡温泉の旅館にたてこもって、民族差別問題を訴えた、金嬉老事件である。

 私は、北朝鮮平壌(ピョンヤン)で生まれた。子供のころは、大同江の河原で兵隊の演習を眺めたり、夫婦連れの乞食を1日中観察したり、10銭の紙飛行機の売れ行きを気にして物売りのおじさんにつき合ったりしながら、悠久の時間に包まれて過ごしていた。

 そして、突然終戦がやってきた。終戦直後のソ連軍の進駐などで天地がひっくりかえり、子供ながらに首をすくめて暮らしていた。そして、終戦の翌年の夏に、38度線を徒歩で越えて日本に帰ってきた。

 子供の私は、日本が朝鮮を侵略した歴史を知らなかった。そのことを知ったのは、引揚げて日本に帰ってきた後に、学校の授業で教えられてからである。日韓合併、強制連行などという言葉を聞くたびに、心が刻まれるようで落ち着かなかった。「ああ、そういうことだったのか。確かに思い当たることがある。」そう考えて、私は、幼いときの乏しい体験を検証した。そして、引揚げの道中の真夏の暑い日ざかりに、卵やキムチを売ってくれたオムニたちの顔を思い浮かべた。大同江の滔々とした流れ、皺を深く刻んだオムニの顔……。それを思うと、日本の朝鮮侵略という歴史は、私にとっては信じられないことであり、また慚愧に堪えないことであった。そして、いつかこの問題にきちんとこたえようと、漠然とした形ながらも深く心に刻み込んでおいた。

 そして、金嬉老暴力団員に向かってライフル銃の引金を引いた1968年2月20日、その日は、奇しくも私の30歳の誕生日だった。

 在日朝鮮人が、手形のもつれから暴力団員を殺し、民族差別問題をマスコミを通じて訴えている! これは、私にとっては、内奥にしまっておいた2つの懸案問題に、同時に突然スポットライトが当てられたようなものである。

 懸案問題の1つは、日本の朝鮮侵略という歴史をきちんと認識して、民族差別をなくす糸口を探究し、その実践に参加することである。もう1つは、「先取り」理論を公表することである。それがなぜ金嬉老事件と関連するのかといえば、融通手形の発行は個人レベルの「先取り」の形態に他ならないからである。「先取り」が殺人の原因になるという恐ろしさを人々に知ってほしい、と私は考えたのだ。

 当時の私は、2年間の司法修習生としての研修が終わりに近づき、最後の修了試験(これは二回試験と呼ばれている)がこれからはじまるというときであった。あと1か月余りでいよいよ弁護士になる。「とうとう30歳になった。弁護士になったら少しはいい仕事をしよう。そして、懸案の『先取り経済』に取り組もう。」と思っているところに、この金嬉老のニュースが飛び込んできた。私は、「これこそ自分の仕事だ」と咄嗟に判断した。そして、ただちに名乗りをあげ、弁護団に加わった。このようにして私は、二回試験の最中から弁護団や支援グループの会議に参加し、弁護士になったその日から、金嬉老の弁護人になった。

 余談になるが、この金嬉老事件の弁護人席には、弁護士の金判厳弁護人と作家の金達寿特別弁護人が、いわば南・北を代表する形で同席した。南・北の代表が公式の席に並び、共通の目的をもって仕事をすることは、戦後初めてのことであった。1991年9月17日、国連総会は、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の国連同時加盟を承認する歴史的決議を全会一致で採択したが、その23年前に、両金氏の屈託ない握手を見ていた私にとっては、この国連加盟のニュースには特別の感慨があった。

 金嬉老事件は、いろいろな点で歴史的な意味を担っていたが、私は、事件の根底にある「先取り」という経済現象の公表を、そのひとつとして加えようと、深く心に期していた。

 私は、1969年1月29日、金嬉老事件の公判の冒頭段階で意見陳述を行った。その内容は公判記録にあり、また印刷物もあるので、ここで初めて「先取り」理論を公表したことになる。そして、その意見陳述の一部に加筆し、1969年6月25日に発行された「金嬉老公判対策委員会ニュース第9号」に、『剰余価値の先取り体制に関する試論――金嬉老と手形との関係から』というタイトルで発表した。次回は、その『試論』に沿って論述をすすめたい。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/24にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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「バブル」でなく「先取り」経済(5回中の1)

今回から5回にわたって、「先取り」という概念を思いついた経緯と「先取り」理論の内容を述べることにするが、タイトルは、〈「バブル」でなく「先取り」経済〉ということにしたい。なぜならば、ここで言いたいことは、世の中で「バブル経済」と言われていることは、実は「先取り経済」であり、そのことを明らかにすることが目的だからである。書物であれば、これからの5回で1つの章を構成するものだとお考えいただきたい。

 そこでまずは、なぜ「先取り」という概念を思いついたかというところから入って行くことにする。私事になって恐縮だが、「なぜ思いついたか」ということになると、どうしても私の経験を語らざるを得ないので、お許しをいただきたい。

 私は、1962年に大学を卒業して鉄鋼会社に就職した。2か月の実習期間を終えて、最初に配属されたのは本社監査部という部署だったが、勤務地は製鉄所の中にあった。

 ときはまさに高度経済成長のまっただ中にあった。そびえ立つ高炉からはさかんに黄色の煙があがり、長々と大きいストリップミルには真っ赤な鋼鉄が疾走していた。右も左も分からない新卒の私は、ひたすら高度成長の恩恵に浴しながら、昼間はそこそこに内部監査の仕事をこなし、夜は仲間と酒を飲んで巷を徘徊していた。

 しかし、あるときふと、この高度成長はいつまでも続かないのではないかという想念が私の頭の中に宿った。そして私は、その想念にこだわった。

 この巨大な製鉄所を動かし、毎日大量の銑鉄、鋼鉄を生産し、しかも成長をし続ける原動力は何なのだろうか。そこには、論理というか、仕組みというか、のっぴきならない原理のような何かがあるのではないだろうか、と私は考えた。それは、ひと言で言えば、資本主義の論理なのだろうが、もっと具体的な何かがあるのに違いないと思っていた。しかし、はじめのうちは深刻に思考を煮詰めていたわけではなく、高炉の煙を眺めながら漠然とした想念として育てていたに過ぎない。

 いつのことだったか思い出せないが、入社した年の夏の終わり頃だったと思う。「企業は、利益が生まれる前に、先に計上しているのではないだろうか」という考えが頭に浮かんだ。

 そこで私は、大手メーカーの株式配当率を調べてみた。すると、ほとんどの企業の配当率が、毎期同じであることが分かった。しかも、業界ごとに、鉄鋼は10%、化学は10%、造船は12%、電力は10%と、ほぼ一定であることが明らかになった。

 株式配当率は、その期の利益から割り出されてくるものであるから、いつも、どの企業も、業績が一定であることは、あり得ないことではないだろうか。それなのに、こんなに揃っているということは、先に株式配当率を決めておいて、後から何らかの方法で辻褄を合せているに違いない。つまり、剰余価値が生み出された後に分配関係が問題となるのではなくて、剰余すべき価値として先取りする経済体制に入っているのだ。これこそが、目の前の高度経済成長の原動力なのだ。

 そう気づくと、私は、大発見をしたような気持ちになった。どの程度の気持ちかというと、人から笑われるかもしれないが、ほんとうにそのとおりに思っていたのだから、この機会に言ってしまおう。

 「マルクスも、多分その他の経済学者も、誰も気づかなかったことに自分は気づいたのだ。これを畢生の仕事にしよう」と、考えたのである。

 そして、私の頭の中は、「先取り」という言葉にほぼ占有されてしまった。つまり、なぜ企業は利益を先取りするのか、「先取り」のパターンにどのようなものがあるか、「先取り」の影響はどこに出てくるかなどと、寝ても覚めても考えるはめになってしまったのである。いったん、「先取り」という仮説を立ててみると、さまざまな経済現象や社会現象がよく理解できるように思われた。

 しかし、冷静に考えれば、高度経済成長のまっただ中で、しかも基幹産業の鉄鋼会社の中で、そんなことを考えているのは矛盾以外の何ものでもない。そこで、私は、つぎのように考えた。すなわち――

 仮に、私の考えを形にまとめることがあっても、そのときは矛盾が大きくなってどうにも身動きができなくなるだろう。ほんとうにこれを畢生の仕事にしたいのならば、早いうちに職業を変えておくしかない。しかし、会社を辞めて「先取り」の研究をはじめたとしても、そんな人間は世の中から相手にされることはないだろう。そうだとすれば、まず食べてゆく方法を確保して、それからこの畢生の仕事にとりかかろう。それならば、法学部出身である以上、司法試験が一番手っ取り早い。

 そのように考えて、私は、会社の独身寮を出て、農家の離れに下宿し、司法試験に挑戦することにした。それは、その年の11月末日だった。満天の星の光が、見上げる私の身体に沁み込んできた。司法試験は、2回滑って、3度目にようやく合格した。そして、1966年に会社を辞めて司法研修所に入所した。

 司法修習生になるにあたって私が決意したことは、いよいよこれから「先取り」に取り掛かるぞ、ということだった。そこで、大学ノートに考えを書き留めておいた。そのメモのタイトルは、『663メモ』となっている。すなわち、1966年3月に書いたメモという意味であるが、長さは1行置きの大きな字で53頁。日付は1966年3月8日から10日までで、そのとき私は28歳だった。その中から、いくつかの部分を転記しておこう。

 「私が感じていたことは、経済が病理現象を呈して来るに従って、企業の利益 は貸借対照表からはじき出されてくる結果ではなくて、論理的にはそれが逆転してくるのではないかということである。即ち、企業の利益が、まず諸条件が勘案された上で算出され、そのあとで貸借対照表の数値を出すという論理過程をたどると同時に、その意味で貸借対照表が形式化いや形骸化されてくるのである。一口に粉飾決算といわれるものであるが、粉飾決算という言葉では言いつくせないような、経済の構造に直接的に密着した現象であり、ある種の経済発展をたどる過程で不可避的な現象として、これをとらえるべきであると思う。」

 「では、企業が真実の利益よりも多くの利益を計上するメリットはどこにあるのであろうか。それは、今後の需要が拡大していくであろうという企業経営者の適切な予想のうえに成り立っているのであろうか。本来のB/S(貸借対照表)ないしP/L(損益計算書)の論理操作をたどれば、結果的に算出された利益が、とりもなおさずその企業の現在の力を示すものであり、そこから拡大の可否が検討されていく筈である。しかし、利益算出の先行性ということは、ここに、予想ないし見込の要素が必然的に介入せざるを得ない。これは、1つの企業の社会的影響力が資本の集中に伴って無視出来なくなったという、現在の経済機構の実状からすれば、ある程度やむを得ないことかも知れない。従って、これは、B/SないしP/Lが現在では、そこにもり込めない要素があるために必然的に形式化し無力化されているのか、B/SないしP/Lにもり込んではならない要素をもり込んでいるのかどちらかである。或いは、その両方なのであろう。しかし、現在どの企業もB/SないしP/Lを用いて利益を算出している以上、ここに将来の需要を予想した上で、それに備えて実績以上の利益を計上することは、そもそも問題なのである。しかし、現状の経済機構から見れば、ある程度やむを得ないと考えれば、このようなことをすることが正当化される唯一の道は、将来の需要の予想が適切であり、これが一国家全体の経済から見て是認され、また、世界経済から見ても是認されるということ、その予想、見込に基づいて利益が先行的に計上されるということである。それでは、このような要請から企業が利益計上を先行させているのであろうか。私ははなはだ疑問であると思う。」

 ここで使っている「利益計上の先行性」という言葉は、トヨタ自動車をはじめとする大企業が軒並み赤字決算を発表している2009年2月頃の状況を見ると、違和感を持つ人が多いだろう。しかし、「利益計上の先行性」は、高度経済成長期における価値の「先取り」の典型的な形態なのであって、これが後に金融操作による価値の先取りなどに形態を変えてゆくのである。すなわち、価値の「先取り」という点では、後の金融操作によるものと根っこは同じである。また、形態としては主流の地位を他に譲るものの、「利益計上の先行性」による価値の先取りは現在でも行われている。例えば、2009年2月7日の朝日新聞は、インドのIT大手「サティヤム・コンピュータ・サービス」のラマリンガ・ラジュ会長が巨額の粉飾決算で逮捕されたことを報じている。その記事によれば、数年前から売り上げや利益を水増しし、帳簿上の現預金の94%にあたる504億㍓(約960億円)は架空であり、ムンバイ証券取引所株価指数が16%下落するなど、市場に動揺が広がっている。(廣田尚久)

※本エントリは2010/02/17にCNET Japan ブログネットワークに掲載されたものです。
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